オールディーズコレクター岡村の「Coffee Break」

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パーカーは、自分のやり方で徐々にエルヴィスの生活と仕事の中に入り込んでいった。彼はエルヴィスの父ヴァーノンの友人となり、そして、彼の貪欲に訴えて、息子はスターになり金持ちになることを約束し彼がその気になるように持っていった。

母親のグラディスは、パーカーの申し入れを受け入れることは半信半疑だった。彼女はパーカーが信用できる男とは思はなかったからである。それでも、彼には優れた商才があると認めなければならなかったのである。

パーカーは、エルヴィスのショーでますます多くの予約を開始した。そして、1955年に、彼はプレスリーのマネージャーとして引き継ぎ本格的に動き始めた。
1955年8月15日、エルヴィスは彼の唯一のマネジャーとしてコロネル・トム・パーカーを雇用する契約書にサインした。

彼のサービスのために、コロネルはプレスリーが稼いだ全てのお金の25パーセントを受け取ることになった。エルヴィスがパーカーとの契約にサインしたとき、彼は1955年3月15日までボブ・ニールとの契約期間がまだ公式には残っていた。

本質的には、エルヴィスがパーカーとの契約のときに、二人とも同じ仕事をするためパーカーに25パーセントとニールにも15パーセントを支払うことに同意した。

しかし、1955年の最後の数ヶ月、ニールは名義上だけのマネージャーだった。エルヴィスはニールに対して多くの恩義を感じていたが、パーカーにはあったコネクションがニールにはなかった。

そして、パーカーをマネジャーにすることによって自分自身の芸歴が進歩し続けそうならば、最高の選択であったことも充分に理解していたのだった。
エルヴィス・プレスリーを失ったボブ・ニールは、サン・レコードのサム・フィリップスと共にマネジメント会社「スターズ株式会社」を立ち上げた。

1958年、ニールは最初にカントリー・シンガー“ジョニー・キャッシュ”のマネジャーとなった。続いて、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、コンウェイ・ツイッティー、ソニー・ジェームス、ウォーレン・スミスなどロックン・ロールとカントリー・ミュージックの有名歌手をはじめサン・レコードに所属するアーティストのマネジメントも行った。

写真;ロマンスが囁かれたハリウッド女優のナタリーウッドと。
エルヴィスの友人で俳優のニック・アダムスからナタリー・ウッドを紹介された。


エルヴィス・プレスリーの初期の成功に関わったもう一人の人物が、コロネル・トム・パーカーだった。以前は劇場やカーニバルでの客の呼び込みをやっていた。

その後、カントリー・ミュージシャンのマネジャーに転職した男である。本名はアンドリア・コメリアス・ヴァン・クジクでオランダのブレダで1909年6月26日に生まれた。

彼は1929年までそこで住み、米国へ不法移民でやってきたので名前をトム・パーカーと名乗り、生まれをウェスト・ヴァージニアのハンティントンと言っていた。(エルヴィスはヨーロッパや日本へコンサート・ツアーを行ったことがなかった。パーカーは不法移民だったため、強制送還を恐れてパスポートを取得出来なかったからである)

パーカーは、1929年から1932年の3年間、陸軍の第64沿岸砲兵部隊の任務に就いていた。彼は除隊後の1932年にマリー・モット・ロスと結婚した。
それから、フェアーやカーニバルの呼込師として働き始めた。そして彼はペテン師(詐欺師)でもあった。

彼にはもっと不名誉な行為があった。グレイト・パーカー・ポニー・サーカスとコロネル・パーカーとダンシング・チキンズである。後者のダンシング・チキンでは、おがくずで覆ったホット・プレイトの上に生きた鶏を乗せたのである。鶏がダンスしたのは、音楽ではなく足下が熱いからであった。しかし、鶏の足が燃えるのだけは差し控えた。

パーカーは、1940年代、歌手のジーン・オースティンのショーをプローモートしたのをきっかけにミュージック・ビジネスに入った。パーカーの好きなプロモーション小道具は,歌手の出演スケジュールがでてくる数週間前から町中をチラシとポスターで覆うことにだった。

パーカーは、あのカントリー・ミュージックの大御所エディー・アーノルドのマネジャーを1942年から1951年までやり、エルビスの憧れのカントリー歌手ハンク・スノーのマネジャーも1954年から1956年まで続けた。

彼は、エルビスに多くの可能性を見た; しかしながら彼は、エルビスが、売れる歌手になるためにはさらに磨きをかけることが必要であることを知っていた。
パーカーは,時間をかけて獲得を狙った。

プロモーターとして、プレスリーを自分のクライアントにしたいことはわかっていたが、何にも急ぐことはないと考えていた。

一方、プレスリーはボブ・ニールと契約結んでいることもわかっていた。パーカーは、彼の両親に若いエルビスがどれくらい影響を及ぼされるかを見て、彼は注意を払いながら、最初は父親のヴァーノンに、次に母親のグラディスに近づき始めた。

1955年の夏、パーカーは自分のプロモーション会社「オール・スター・アトラクション」を通してエルヴィスのショーをやらないかとボブ・ニールに話を持ちかけた。
働きすぎて過労ぎみのニールは、パーカーの申し入れを喜んで受け入れた。

写真は、コロネル・パーカーとエルヴィス・プレスリー


世界は、エルビス・プレスリーに注目し始めた。 ビルボード誌は「彼はルイジアナ・ハイライドで最も人気の高い歌手」と述べ、ビルボードで第8回目の「最も有望なカントリー&ウェスタン・ヴォーカリスト」として選んだのであった。

米国中のDJは、レギュラー番組の中で突然プレスリーのレコードを流した。 新しい若者の音楽は、広範囲にわたって国中に広がっていった。
オハイオ州クリーブランドでは、DJのアラン・フリードが新しい音楽を「ロック・アンド・ロール(ロックン・ロール)」と呼んだ。

そして、エルビスは若者音楽の先駆者として素早く確立させていった。
1950年代の最も人気のあったタレント発掘番組「アーサー・ゴッドフレイ・タレント・スカウト」のオーディションに出演したエルヴィスにみんなの注目が集まった。
エルヴィス・プレスリーとブルームーン・ボーイズは「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」を歌った後、ゴッドフレイと審査員からきっぱりと拒絶された。

パット・ブーンも同じショーに出演、審査員から受け入れられて結局一等賞を勝ち取った。 その2年後に、バディー・ホリーとクリケッツがオーディションを受けたが、これもまたはねつけられた。ゴッドフレイはロックンロールが分からなかったのである。
このショーは1958年になくなった。

余談であるが、1955年5月にエルヴィスが4枚目のシングル・レコード「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」を出した翌月の6月にビル・ヘイリー&コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がビルボードでナンバーワンとなった。
この曲は1954年にビルがデッカ・レコードに移籍してその4月にレコーディングされたが、さほどヒットしなかった。55年にMGM映画「暴力教室」の中で使用され忽ち大ヒットしたのであった。

ビル・ヘイリーはエルヴィス・プレスリーのようにスパー・スターとして扱われることはなかったが、“ロックン・ロールの父”として後世に語り継がれることになった。
因みに、ビル・ヘイリーはプレスリーより10年早い1944年のデビュー。1952年に「クレイジー・マン・クレイジー」がヒット。55年の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の大ヒット。そして「シェイク・ラトル・アンド・ロール」「ディム・ディム・ザ・ライツ」「マンボ・ロック」と立て続けにヒットを飛ばした。


写真:ナタリー・ウッドがエルヴィスのために作ったとされるブルー・ベルベットのシャツを着て歌うエルヴィス。


ニールは、1955年5月に、エルヴィスの最初のメイン・ツアーを予約した。これは3週間の仕事で、カントリー・ミュージックの大御所が顔を揃えた。マザー・メイベル、カーター・シスターズ、ウィルバーン・ブラザース、スリム・ホイットマン、ファーロン・ヤング、そしてハンク・スノーとそうそうたるメンバーが出演するショーであった。

ツアーは、南部の主要なミュージック市場のすべてを標的にぶつけた。ナシュビル、ヒューストン、ダラス、ニューオリンズ、リッチモンド、セント・ルイスなど大都市と同様に中間で小さな町にも立ち寄りエルヴィスを売り出すツアーとなった。

同時にサン・レコードは、プレスリーの4枚目のシングルをリリースした; 「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」/「アイム・レフト、ユー・アー・ライト、シーズ・ゴーン」(Sun217)。
 
このレコードの売れ行きは、コンサート・ツアーを行った都市では非常に強かった。
より重要なことは、このレコードの販売が全米の市場にまで広がり始めたことであった。「Baby Let's Play House」は、今までに出したエルビスのシングル・レコードの売り上げ記録を突破した。

この歌は、ビルボードのカントリー・ヒット・チャートで10位となり、このチャートに15週間残っていた。また、カントリー・ディスク・ジョッキー・チャートの5位に到達したのであった。

この成功に気を良くしたサン・レコードは、「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」に続いて、「ミステリー・トレイン / アイ・フォガット・ツー・レメンバー・ツー・フォゲット」(Sun 223)を1955年の夏にリリースした。

この”ミステリー・トレイン”は、1930年にカーター・ファミリーが歌った「ウォーリード・マン・ブルース」を元にしてサム・フィリップスとハーマン”リトル・ジュニア”パーカーによって1953年に書かれた歌である。

プレスリーのレコーディング・セッションにはいつものようにスコッティー・ムーアとビル・ブラック、そして今回は、ドラム担当のジョニー・バーネロも加わった。(DJフォンタナは、1955年の終わり頃にエルヴィスのためにドラムの演奏を始めた。ナッシュビルでセッション・ドラマーとなって辞める1969年まで続いた。

しかしながら、フォンタナはプレスリーのサン・レコードでのレコーディングでは全く演奏しなかった)
「ミステリー・トレイン」は、ビルボード・カントリー・ミュージック・チャートで11位となり、前作の「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」(10位)のチャート順位に匹敵するヒットで人気と実力を証明することとなった。


写真は、エルヴィスとバックで演奏するギターのスコティー、ベースのビル。そして、隠れて見えないがドラマーがDJファンタナ。


1954年10月10日にエルヴィスとスコッティーそしてビルの3人は、3枚目のシングルレコードを録音するためにスタジオに戻った。

A面は「ミルクカウ・ブルース・ブギ」で、これは1935年にジェームス“ココモ”アーノルドが作曲したリズム&ブルースで「ミルクカウ・ブルース」と言うタイトルだった。

B面は「ユー・アー・ハートブレイカー」で、このジャック・アルヴィン・サリーの曲が1953年にカントリー・シンガーの“ジミー・ヒープ”によって最初にレコーディングされたものである。

最初にプレスリーが出したレコードは、リズム&ブルースとカントリーの組み合わせだった。今回もそれをベースにしたものだった。エルヴィス、スコッティー、ビルそしてサム・フィリップスが作り上げたロックン・ロールがミュージック・シーンの最前線へと躍り出てきた。

レコーディング・スタジオで編み出した彼らの音楽は、今まで誰も創り上げることが出来なかった“メイジャー・ミュージカル・イノベイション(偉大な音楽の革新)”を遂にやってのけたのだった。

「ミルクカウ・ブルース・ブギ / ユアー・ア・ハートブレイカー」は、エルヴィス・プレスリー・サウンドを印象つけたが、売れ行きはあまり良くなかった。ミュージック・チャートに少し出ただけだった。そしてビルボード誌もこの曲を取り上げなかった。
彼のレコードの売れ行きも横這いになってきた。しかし、エルビスの実演は相変わらず人気があった。

1955年1月1日に、サム・フィリップスとスコティー・ムーア両方が主張を言い始めたときに、エルビスは最初のフルタイム・マネージャとしてメンフィスでDJとプロモーターをしているボブ・ニールを雇った。

ニールは、1917年にベルギーのコンゴで生まれ、1930年に彼の家族と共にアメリカにやってきた。1940年にメンフィスにあるラジオ局「WMPS」にディスクジョッキーとして雇われた。そして、すぐに彼自身のショー 「ボブ・ニール・ファーム・ショー」を受け持った。さらに、ニールはメンフィスの大通りで「ボブ・ニール・レコード店」を所有していた。 1952年にユニオン通り160番街に「メンフィス・プロモーション・エージェンシー」 を設立と同時に、彼はプロモーション分野にも進出した。

プレスリーのマネジャーとして、何よりもまず、エルヴィスのショーをやるために出演契約を取ることを考えた。

このサービスのために、彼はエルビスが得たすべてのお金の中から15パーセント受け取った。ニールの受け取り分と経費を差し引いた後に、エルビスは50パーセントそしてスコッティーとビルにそれぞれ25パーセントずつ分けた。1回の出演でおよそ200ドルから400ドルを稼いだ。

写真は、サン・レコードから出した3枚目のシングル。A面「ミルクカウ・ブルース・ブギ」とB面「ユー・アー・ハートブレイカー」

ルイジアナ・ハイライドの成功によりプロ歌手へと拍車がかかった。エルヴィスは、トラック・ドライバーとして勤めていた“クラウン電気会社”を辞めてプロの歌手として専念する事を決めた。エルヴィスら3人は、休みなしの強行スケジュールでの演奏旅行に乗り出した。

彼らはバー、キャバレー、カントリー・ミュージック・ハウス、ナイト・クラブそして、各地域で行われるカウンティー・フェアーなどでアメリカ南部を演奏しながら横断して行った。
フロリダからニューメキシコまでの旅行中は、出演させてくれるところがあれば何処の開催地へも行って演奏した。時には、トラックの荷台の上で歌ったこともあった。エルヴィス・プレスリーは、演奏の回数を重ねるごとに成長していった。

頭髪に油を塗り、黒とピンクのスーツで身を纏い、口をゆがめて腰を回転させながら歌うエルヴィスから、感情を抑えていた1950年代の若者を束縛から解き放つように彼らの欲求に応え魅了するセクシャル・オーラが溢れ出ていた。

プレスリーは、当時の若者たちとって不道徳でみだらなと思われる立ち居振る舞いをステージ上でやって見せた。その結果通り、女性達が熱狂し夢中になった。エルヴィスが歌う所は何処でも、狂乱状態で叫び、エルヴィスに触ろうとして服を引き剥がしたりする女性の群衆に迎えられた。女性ファンの中には興奮しすぎて失神することもたびたびあった。

たぶん、フランク・シナトラとルドルフ・ヴァレンティーノ以外に女性の観客からこのような強硬な反応を引き出した芸能人は見たことがない。

しかし、男性の見方は女性とは違っていた。多くの若い男性にとっては、プレスリーのパフォーマンスは不愉快であった。
また、他の男性は男らしさを脅かすものとして見ていた。
南部の若い男性達は、彼らのガールフレンドがプレスリーに反応することが原因で怒りそして、ねたみ始めた。

エルヴィスは、たびたび嫉妬している女性ファンのボーイフレンドから脅されたり、暴行を受けたことがあった。

いよいよ晴れの舞台でプレスリーのパーフォーマンスを披露する時が来た。
エルヴィスは「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」と「ザッツ・オールライ・ママ」を歌った。

エルビスとスコッティーそしてビルの演奏は上々のできだった。曲に合わせて体を揺り動かせ回転させながら歌ったエルヴィスは、前のオーバートン・パーク・シェルで観衆が熱狂の渦となったのと同じようなパフォーマンスをこのステージでもやってのけた。

しかし、このグランド・オール・オプリーは純粋のカントリー・ミュージック・ショーで伝統あるステージなのである。カントリーとリズム&ブルースをミックスしたエルヴィスの歌い方は、保守的なオプリーの観客には耐えられないものであった。エンターテイメントの歴史で最も不名誉な出来事の一つであった。

グランド・オール・オプリーのマネジャー、ジム・デニーは「トラックに乗ってすぐに帰れ」とエルヴィスに言った。その拒絶反応によって、エルヴィスは心が乱れた。不本意にも終わりを告げられたが、それまでオプリーのステージで楽しんで歌い満喫したことを自分自身で納得し始めた。

落ち込んだ気分のまま車でメンフィスに向かっている時にエルヴィスは「歌手を諦めて電気技師養成学校に行く」と言い始めた。スコッティーとビルそしてマリオンは、エンターテイメント業界に残り歌手を続けるように説得した。

エルヴィスは、既に契約を交わしていた「ルイジアナ・ハイライド」に出演しなければならなかった。ルイジアナ州のシェレブポートに本部があるラジオ放送局“KWKH”が、アメリカの南部一帯に向けて毎週土曜日にオン・エアーするカントリー・ショーである。

ハイライドの人気は絶えず上昇はしているが、同業であるグランド・オール・オプリーより少し劣ることを気にかけていた。

1954年10月末、エルヴィスとスコッティーそしてビルの3人は、このショーに出る多くの出演者の中で一番最初に演奏することになった。彼らはもう一度、オプリーで歌った「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」と「ザツ・オーライ・ママ」を演奏した。

今回は前回のオプリーでの反応と全く違って、彼らのパフォーマンスが大いに受けたのである。

ハイライドの観衆を魅了し夢中にさせたことに気を良くしたマネジャーは、このショーに来週も出演してほしいと頼んだ。それに、毎回レギュラー出演者として1年間の契約まで交わしたのであった。

1回の出演料はエルヴィスが18ドル、スコッティーとビルには12ドルを支払ってくれることになった。歌うこと以外に、ショーの中で農産物や食品の広告をする事も義務付けられた。ギャラをもらって歌うことが出来るエルヴィスにとっては、それらを宣伝する事などは苦にもならなかったであろうと思う。なぜならプロ歌手として第一歩を踏み出したと言う感激と感謝の気持ちがあったこと以外他にないからである。


9月10日に「グッド・ロッキン’・トゥナイト」(ウェイノニー・ハリスが1948年にレコーディングしたリズム&ブルースのヒット曲)とカントリー・ポップのヒット曲「アイ・ドント・ケアー・イフ・ザ・サン・ドント・シャイン」(原曲は1949年にウォルト・ディズニーの映画「シンデレラ」のために書かれた歌)をレコーディングした。

A面の「グッド・ロッキン’トゥナイト」は、オーバートン・パーク・シェルで歌い観客を刺激し興奮させた歌である。

このレコードは、サン・レコードから1954年9月25日にリリースされた。このシングル・レコードはビルボード誌で好意的な批評を受けていたが、メンフィス地区以外ではあまり売れなかった。メンフィスのヒットチャートでさえ32位以上は上昇しなかった。全米のカントリー・ミュージック・チャートでは最下位に近い所に短期間いただけであった。

しかし「ザッツ・オーライ’ママ」のヒットで、ある程度売れたエルヴィスは、アメリカの南部で最も有名な2つのカントリー・ミュージック・ラジオ・ショーと契約したのである。それは、ナッシュビルのWSMによって放送される「ザ・グランド・オール・オープリー」とルイジアナ・シェレヴポートのKWKHで放送される「ルイジアナ・ハイライド」であった。

1954年10月2日、エルヴィスとスコッティーそしてビルは、サン・レコードのマリオン・ケイスカーが運転する車でエルヴィスが出演するナッシュビルのグランド・オール・オープリーまで走った。エルヴィスは多くの期待と不安でそのショーを待ち受けていた。
この“グランド・オール・オープリー”は、1925年からカントリー・ミュージックで最も有名なラジオ・ショーとしてミュージック・スター達から受け継がれてきたカントリー・ミュージシャンの憧れの舞台であった。

数多くの有名ミュージシャンは、例えば、ハンク・ウィリアムス、エディー・アーノルド、ハンク・スノー、パッツィー・クライン、ミニー・パール、ジョージ・ジョーンズなど、この舞台に出演してミュージシャンとして自分の経歴を積んで言ったのである。
エルヴィスにとって、グランド・オール・オプリーと言うカントリー・ミュージックの有名な舞台に立って歌うことでプロ歌手の道が開かれると考えたのであった。

このレコードは早くもメンフィスでヒットし始めた。地元のヒットチャート3位まで上昇し、2万枚以上のレコードを売り上げた。しかし、全米で注目される程のものではなかった。数人のディスクジョッキーがこのレコードを取り上げ流してくれた。一部のDJは、田舎っぽくて黒人的すぎると批判した。

しかし、音楽雑誌ビルボード・マガジンは、プレスリーに好意的だった。「カントリーもR&Bも歌える強力な新人歌手が現れた」と批評してくれた。
地元メンフィスでのわずかな成功ではあるが、これをきっかけに次の行動へと拍車がかかった。ギタリストのスコッティー・ムーアが、オーバートン・パーク・シェルで行われるライブショーの出演準備を始めた。当時のカントリー人気歌手“スリム・ホイットマン”と“ビリー・ウォーカー”がメインゲストのカントリー・ミュージック・ショーだった。このコンサートは、地元のDJでプロモーターの“ボブ・ニール”が主催したもので、後にエルヴィスの最初のマネジャーになった男である。

エルヴィスとスコッティーそしてビルのトリオのバンド名は「ヒルビリー・キャット&ブルームーン・ボーイズ」と名付けられ、演奏曲は「ザッツ・オールライ・ママ」と「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」とポスターに宣伝された。
8月10日、エルヴィスは昼と夕方のショーに出演することになった。その日もスリム・ホイットマンがメインゲストだった。1回目のショーでは「ザッツ・ホエン・ユア・ハートエイク・ビギン」と「オールド・シェップ」の2曲のバラードを歌った。

しかし、夕方のショーでは「ザッツ・オールライ・ママ」と「グッド・ロッキン・トゥナイト」を少し調子をあげて歌った。プレスリーは、体を曲げたり、腰を回転させたりして舞台中を歌いながら動き回った。その内に観客があちこちで叫び出した。その観客が群衆と化し絶叫し始めたのである。それを見ていたカントリー・シンガーの“ウェッブ・ピアース”は、次に演奏する予定だったが、出演を断った。

後にエルビスがインタビューで次のように語った。「観客の誰もが大声で叫び、絶叫したりといろいろあった。演奏が終わって舞台裏に戻ってくると、私のマネジャーが“体をくねくねしてして歌うから、みんな興奮して絶叫していた”と言うから、また舞台に戻って少しそれをやった。「キャッー」と叫ぶから、もう一度やったらより一層すごい声で絶叫し、観客が興奮の渦に巻き込まれたようだった」
彼らの次のステップは、スタジオに戻ってもう一枚のシングル・レコードを録音する事だった。



インタビューをするために、エルヴィスを連れ戻すように父バーノンに伝えた。エルヴィスは走ってやって来た。「そこに座って。いいかい、今からインタビューをやる」とDJのフィリップスは言った。急に言われたエルヴィスは「フィリップスさん、インタビューをやると言われても俺は何も判らないぜ」と応えた。「そうだな、わかった。ただ君は、私が話すことに対して応えるだけでいいから。ただし、汚い言葉だけは使わないように」そう言われたエルヴィスは、緊張しながら椅子に座った。「始めるときは、言うから」と伝えて2曲レコードをかけた。その間、二人は話し続けた。「ようしいいぞ。エルヴィスありがとう」「えっ、もう終わったの?」「そう、もう終わったよ」ラジオのマイクから電波を通じて、エルヴィスのインタビューが同時に流されていたのである。彼は冷や汗をかいた。

エルヴィスは確かに神経質になっていた。それには理由があった。
南部の白人達が「このニューサウンドを聴いてどのように反応するか」は完全に予測不可能だったからである。これはスタッフ全員の関心ごとであった。
ギターリストのスコッティー・ムーアは「きっと、街中の大騒ぎになるだろう」と予測した。また、サム・フィリップスはこのレコードが議論を巻き起こす要因になることを望んでいた。それが、良くても悪くても注目されるからである。

エルヴィス、スコッティー、ムーア、そしてサムの4人で今までにない全く新しいサウンドを思いつき、人種の壁を乗り越えて作り上げたものだった。プレスリーの歌は、忽ちメンフィスの一部の若者達に受け入れられた。当時の南部の白人はより保守的で、特に年輩者によって黒人の音楽は拒絶されていた。
「ザッツ・オーライ・ママ / ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」は、メンフィス地域ですぐにヒットした。サン・レコードは5千枚のレコードの注文を受けた。マスター・ディスクをカットもしていない、それにエルヴィスと正式に契約も交わしていない状況の中でである。
エルヴィスは、7月12日にサン・レコードとレコーディング契約を結ぶと同時にスコッティー・ムーアとも契約を交わしそれにサインした。
そして7月19日「ザッツ・オールライ・ママ / ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」(SUN209)が正式にリリースされたのである。

成功と尊敬を得ることがモチベーションとなり、それに打ち込み励むことによって彼の本能が働き才能の花がほころび始めた。サム、スコッティー、ビル、そしてエルビスによってニュー・ミュージックが開発され、いよいよそれを完成させる時が来た。1954年7月5日、エルヴィス初めての商業用レコーディングがサム・フィリップスの指揮で行われた。スコッティー・ムーアとビル・ブラックの演奏でA面「ザッツ・オーライ・ママ」B面「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」が吹き込まれた。

2日後、そのレコードをラジオ局WHBQでディスク・ジョッキーをしているデゥーイ・フィリップスのところへ持って行った。このラジオ局は「レッド・ホット・アンド・ブルー」と呼ばれるリズム&ブルースの曲を聴かせる番組を持っていた。1954年7月7日の水曜日、エルヴィスの歌がラジオから流れた。間もなく、ラジオ局のスイッチ・ボードに明かりがつき始めた。「ザッツ・オーライ・ママ」のリクエストが殺到したのである。当然のことであるが、これを聴いた誰もが「エルヴィス・プレスリー」とは誰なのか知りたかったことも事実だった。しばらくエルヴィスは、自分の歌がラジオから流れて来ることに神経質になっていた。両親のために、自分の歌を聴くことが出来るラジオ局にチューニングをセットした後、エルヴィスは近くにある映画館へ2本立ての西部劇を見に出かけた。


リクエストのハガキや電話がラジオ局に大量に届いた。デゥーイは、すぐにでもエルヴィスのインタビューをやらなければならないと考えた。そして、エルヴィスが白人であることを知らしめたいと思った。エルヴィスがヒュームス・ハイスクールに通っていた事実を知ら示せば白人であることを知ることになるだろうと考えた。エルヴィスが通っていた高校は白人の生徒がほとんどで、当時黒人の生徒はいなかったからである。サン・レコードのサム・フィリップスは「もし、黒人のサウンドと黒人のフィーリングを持った白人の男を見つけることが出来たら、俺は100万ドルを稼ぐことが出来る」といつも言っていた。DJのデゥーイも同感であった。


レコーディングの合間にみんなが休憩していた時エルヴィスが、本来はブルース・スタンダード・ナンバーの「ザッツ・オーライ・ママ」をアップ・ビートで歌い始めた。ふざけて歌ったもの以外に何もなかった。エルヴィスは、アコースティック・ギターを手で叩きながらスタジオ中を踊りながら歌った。それに乗ってきたムーアとブラックも加わり、3人はスタジオ中を激しいロックのリズムで揺り動かし始めた。それを聴いていたフィリップスが、歌の途中で調整室から飛んで出てきた。

「いったいこれは何事だ」と叫んだ。

「わからないと」彼らは返答するだけだった。

「さあ、早く見つけだせ!これだ!これを失くすなよ。もう一度、それを繰り返すんだ。

テープを回すぞ」。サム・フィリップスは、この歌に何か新しいものがあると悟った。それは、彼が長い間探し求めていたカントリーとブルースそして白人と黒人をミックスさせたサウンドだった。ついにフィリップスは「黒人のサウンドで黒人のフィーリングを持った白人の男」を見つけたのだ。エルヴィスの才能の花が芽を出し始めた時でもあった。これまで数ヶ月以上にわたって、フィリップス、プレスリー、ムーアそしてブラックの4人は、ニューサウンドを見つけだしそれを完璧にするためにスタジオで何日も何時間も費やして来た。



フィリップスは、エルヴィスの初期のサウンド開発にスコッティー・ムーアとビル・ブラックによる演奏が多大な貢献をしたことを認めている。スコッティーのギブソン・ハローボディー・エレキ・ギターから流れるような華麗な演奏とビルの大胆で冒険的なベースのスピード感溢れる演奏なしには、このエルヴィス・サウンドは生まれなかった。結果的には、エルヴィス自身がこのニュー・ミュージック・スタイルに最も貢献していることは間違いない事実である。それは、古いブルースの歌「ザッツ・オーライ・ママ」を新しいサウンドとして引き出したエルヴィスの声であり、紛れもなくエルヴィスのエネルギーであった。
1954年6月27日の日曜日、エルヴィスはスコッティー・ムーアの家に行った。そこでベース奏者の“ビル・ブラック”と会った。早速、3人で数曲演奏し歌った。「俺のワイフが初めてエルヴィスを見たとき、裏からでて行くつもりだったらしい」と後にムーアが語っていた。と言うのは、その時のエルヴィスの格好はピンクのシャツに黒とピンクの縞模様のズボン、白の靴そしてダックテイル・ヘアー・カット(アヒルの尻尾に似ているところから付けられた)だったからだ。

プレスリー、ムーアそしてブラックの3人で打ち合わせの後、10数曲の歌をリハーサルした。その日のリハーサル曲は「アイ・リアリー・ドント・ウォント・トゥー・ノー」「アイ・アポロジャイズ」「ザッツ・オールライ・ママ」などが歌われた。エルヴィスを歌手として売り出すことはないだろうと半信半疑ながら、しかしムーアとブラックは何が偶然起こるかも知れないと思いつつエルヴィスの歌を確認しながら演奏を続けた。その年の7月5日、エルヴィスは再びサム・フィリップスのスタジオへやってきた。

今回は、スコッティーとビルの3人で一緒にコマーシャル・レコードの録音をするためである。最初の歌は「ハーバー・ライト」だった。これは1937年にジミー・ケネディーとヒュー・ウィリアムスが作った歌で、1950年にサミー・ケイが歌って有名になった曲である。それを聴いていたフィリップスは、この歌では成功しないと思った。全く新しさはなくオリジナル的なものは何もなかった。ただ、エルヴィスの声と音楽性はその中で生かされていた。多くの歌を唄い、数時間たった後でフィリップスは「エルヴィスに間違ったやり方をしていないだろうか」と思い始めた。

時間とエネルギーを費やし多くの努力をしたにもかかわらず、エルビスは複雑なスロー・バラードをマスターする事が出来なかった。フィリップスは大変がっかりした。そして、元々歌の上手な若者をののしってしまった。

数時間後、フィリップスは最初からうまく歌えるものはどこにもいないことに気づいた。そこでどんな歌が唄えるかエルヴィスに聞いた。プレスリーはすぐに知っている歌を唄い始めた。彼の歌は荒削りではあるが、エルヴィスの声と音に合わせて踊る振る舞いに彼の可能性を感じた。エルヴィスの素質を見抜いたフィリップスは、当時ダグ・ポインデックススター&スターライト・ラングラーズというカントリー&ウェスタン・バンドで活躍していた“スコッティー・ムーア”に連絡をした。



フィリップスは、ムーアが若いエルヴィスに彼の良いところをそのままの状態で補完してくれることを承知していたからだ。そして、スコッティーのエレキ・ギターサウンドと華やかで元気溢れる演奏スタイルに興味があった。ムーアとフィリップスは、新しいポピュラー・ミュージックの開発について長時間にわたって会話をした。カントリー・ブルース、ゴスペルそして白人と黒人両方のポピュラー・ミュージックの要素を合体させた音楽について語り合った。フィリップスは、エルヴィスのユニークな歌い方がニュー・ミュージックにぴったりだと考えた。

4ヶ月後の、1954年1月4日、エルビスはそのスタジオに戻ってきて2曲吹き込んだ。このときはサムがレコーディングを指揮した。曲は「カジュアル・ラブ・アフェアー」と1951年にヒットしたクリント・ホーナーの「アイ・ウィル・ネバー・スタンド・イン・ユアー・ウェイ」を歌った。サムは相変わらず印象に残らなかった。

数ヶ月たったある日、デモテープを作るために思案していたフィリップスは、秘書のマリオンがエルヴィスのことを強く推薦したにも関わらず、ここでも彼はエルヴィスのことは頭の中になかった。その年の6月にナッシュビルのピアー・ミュージックからデモテープを受け取った。彼はそれを聞いて気に入った。さっそくリリースの準備に取りかかろうとしたが、この「ウイズアウト・ユー」を歌っている黒人シンガーは誰も知らないことが唯一問題だった。フィリップスは、その日スタジオの中をウロウロと行ったり来たりとまるで子供のようだった。歌手を探すために絶えず頭を使って考えるということをあきらめた後、フィリップスは身近にいる他の誰かを探すことに決めた。連絡すると約束したマリオン・ケイスターは、やっとプレスリーに電話をかけて説得する事ができた。フィリップスによると、電話を切る寸前にエルヴィスがスタジオの前を通りかかったのだった。
 彼がレコーディングする順番が回って来た。エルビスは、“インク・スポット”のヒット曲「マイ・ハピネス」を歌った。歌の途中でマリオンは、エルビスの声を聴いて何かユニークであることに気づいた。そこで、社長のサムに聴かせるためにそのコピーをとっておいた。裏面には同じインク・スポットの「ザッツ・ホウェン・ザ・ハートエイク・ビギン」を吹き込んだ。これら2曲を録音されたオリジナル・ディスクが紛失してしまった。しかし、1988年にメンフィスに住んでいるエド・リークの家で見つかった。リークの話によると「レコーディングした後、家にそのディスクを持ってきて私と私の祖母に聴かせてくれたんだ。エルビスはそれを置き忘れていったんだけど、返してくれとは決して言わなかった。見たところ彼はレコーディングの結果にあまり感激していない様子だった」と言っていた。エルビスは「誰かがバケツを叩いているような音が録音されていた」と状況を説明していた。

 マリオンはエルビスの住所を書いておいた。そして、何かあったら連絡すると約束した。彼女がサムにエルビスのテープを聴かせたが、特別な印象はなかった。サムは「彼の声は好きだ」と言っただけで、特には何もふれなかった。
 エルビスは、一ヶ月後、メンフィスのビジネス街にある「クラウン・エレクトリック・カンパニー」のトラック・ドライバーの職を見つけた。会社のトラック、フォードFー100で建設用の電気部品を運ぶ仕事である。週給は41ドルだった。このお金もほとんど母親に渡していた。彼は給料は安いが気楽なトラック・ドライバーの仕事を楽しんでいた。偶然にも、あのロカビリー歌手の“ジョニー・バーネット”も同じ仕事をしていた。
 この頃からプロの歌手になることを夢見ていたが、もっと現実的な野心があった。典型的な南部の若者たちは、自動車を持つことに執念を燃やしている。エルビスの最大の望みは、ガソリン・スタンドのオーナーになることだった。それは、いろんな種類の車と関わり合うことができるからだった。
右上の写真は、父バーノンと母グラディスとくつろぐエルヴィス。

 人口がわずか6千人足らずのツペロから30万人が住む都会メンフィスに移ったエルビスはカルチャーショックを受けた。彼は新しい都会の環境に慣れそうにない貧乏で田舎者の“かんしゃく玉”のように感じていた。

 1949年にヒュームス・ハイスクールに入学した。この頃からエルビスは、徐々に変わり初めていた。髪の毛を長くのばし“アヒルのお尻”と呼ばれるスタイルで髪にグリースをつけてオールバックにし、もみあげも長くした。パートタイムの仕事で得た収入はほとんど母親にあげていたが、残った金はメンフィスにある洋品店でけばけばしく派手な服を買っていた。当時彼は奇抜な服装を好んで着ていた。派手さが目立ち始めた。同級生からも孤立していき、悪い評判が流れ始めた。1951年、母親の過保護をとてもいやになったエルビスは、高校のフットボールチームに入った。しかし、コーチから髪の毛を切ってこいと言われ退部した。そのチームを辞めて数週間後、学生ギャングが放課後エルビスに喧嘩を
売りきた。フットボールチームのスターだった、レッド・ウェストが彼がトラブルに巻き込まれているのを知り助けにやってきた。こんなことがたびたびあり、レッドは悪ガキどもから抜け出すのを助けた。後に、レッドはエルビスのボディーガードとなりよき友人となった。そのレッドは1970年中頃、どん底に落ち込むまで悪名高いメンフィスのマフィアだった。エルビスがギターを弾くのはパーティーの席上か母親のために披露するぐらいだったが、高校時代に歌手としての素地が確立し始めた。



 1953年、高校生活最後の年、ヒュームス・ハイ・スクール・ミンストレル・ショー(バラエティ・ショー)でジョン・レイヤーの“キープ・ゼム・コールド・アイシー・フィンガーズ・オフ・オブ・ミー”を歌った。アンコールに応えて“ティル・アイ・ワルツ・アゲイン・ウィズ・ユー”を歌うまで全員総立ちで拍手が鳴りやまなかった、と言われている。その年の6月に高校を卒業した。写真は、高校卒業アルバムに掲載されたもの。
幼年期~少年期……“エルビスは双子だった” 
 本名は“Elvis Aron Presly(エルビス・アーロン・プレスリー)”。1935年1月8日に父バーノンと母グラディーズのもと、アメリカのミシシッピー州ツペロで生まれた。エルビスは双子だった。最初に生まれた男の子ジェシー・ガーロンは死産でした。その35分後にエルビス・アーロンが生まれた。エルビスは15才まで学校へ母親に送り迎えしてもらうほど母の愛情を受けて育った。母親のグラディーズは、もう一人いるはずの息子を亡くしたことからエルビスに二人分の愛情を注いだ。同世代の若者から「意気地なしの男の子、マザコン少年」とこれが原因でいじめられることがあった。
ゴスペル・ソングから学んだ
 幼いころから音楽に興味があった。3才の頃に教会で母親の膝の上におとなしく座って説教を聞いていたエルビスは、教会の聖歌隊が歌い始めると、体を動かせてダンスしたり、歌詞を真似て賛美歌を歌っていたという。日曜日の午後に教会の外で黒人の歌うゴスペル・ソングを聴いていたという伝説があり、エルビスは「教会のゴスペル・ソングから学んだ」と言ったことがある。ラジオから流れるカントリー・ウエスタン、スウィングやクルーニング(ハミング)・ポップ・ミュージックもよく聴いていた。

 世界中で最も人気を得たエンタテイナーとなるエルビスのそのユニークな歌い方や音楽スタイルは、この頃に開発され発展していったのである。1968年のカムバック・テレビジョン・スペシャルで「ロックン・ロールは、基本はゴスペル・ミュージック、またはゴスペルとリズム&ブルースをミックスしたもの」だと公言している。




観衆の前で歌う初めてのステージ
 彼がローホン小学校の5年生の時、レッド・フォーリーのカントリーバラード「オールド・シェップ」を教室で歌い出した。それを聴いていた彼の先生(ミセス・オレッタ・グリムス)は、エルビスのすばらしい歌声を気に入って一年に一回行われるミシシッピー/アラバマ・フェアーでタレント・コンテストに出られるようにと校長先生(J.D.コール)に話した。観衆の前で歌う彼の初めてのステージである。10才のエルビスは背が低かったのでマイクに届くように椅子の上に立ってバックの演奏なしで「オールド・シェップ」を歌った。このイベントは、ツペロのWELOラジオで放送された。このコンテストで2等賞となり5ドルの賞金と遊技場のすべての乗り物のフリー・チケットをもらった。
 11才の誕生日に母親からギターを買ってもらったエルビスは、二人の叔父から基本的な弾き方を習った。後はポピュラー・ソングを聴きながら独学でマスターした。



一家が破産、メンフィスに転居
 ある日、定職を持たない父親が法律で販売を禁止されていたウィスキーを売ったことで刑務所に入った。しかし、町の権威者がエルビス一家の貧しい生活を見かねて、2週間以内にツペロの町を出ていくことに同意したら釈放すると決めた。
 「俺たちは破産したんだ。それでツペロを出ていったんだ」「親父が家財道具を箱に詰め、1939年型の自動車プリモスのトランクに積んでメンフィスに向かった」と後に語っている。