第37話 ハリウッドに進出、パラマウント社と契約

最初は多くの観客を魅了したが、ラスベガスの観客は、年寄りが多く保守的な人ばかりであった。これまでのコンサートのように観客のほとんどが若者であった時とは明らかに違ったのである。

まるで彼らは、エルヴィスのショーの横でやっているサーカスのつけたしに出席しているかのように、人々は単なる好奇心からやって来たのである。

そこには、鋭く叫びたてる女の子と過激なファンはいなかった。そこにいたのはスパンコール(装飾品)を飾った年輩で中流階級のギャンブラーだった。
最初の数ショーの後、エルヴィスはコメディアン“シェキー・グリーン”よりも下の2番目のプログラムに落とされた。

最初の週が終わるまでに、フロンティアは彼の契約を破棄することに同意した。
ラスヴェガスを出発すると同時に、エルヴィスは、10年間は二度とこの町で演奏しないと誓った。

エルヴィスがラスヴェガスにいる間に1つ良いことがあった。それは、黒人バンド「フレディー・ベル&ザ・ベルボーイズ」の歌と演奏を見に行ったことだった。彼らは、1953年に“ママ・ソートン”が歌ってヒットした「ハウンド・ドッグ」の歌詞に「ユー・エイン・ネバー・コート・ア・ラビット、 ユー・エイン・ノー・フレンド・オブ・マイン」のフレイズを付け足して歌っていた。

それに影響を受けたエルヴィスは、以後自分のショーで「ハウンド・ドッグ」を歌うときはその歌詞を付け足すことを決めた。

エルヴィスがショーの最後にそれを使い始めるとたちまち人気が出た。
この歌は、リズム&ブルース歌手「ウィリー・マエ“ビッグ・ママ”ソートン」のためにジェリー・リーバーとマイク・ストローラーが1952年に書いた作品であった。

1956年7月2日、エルヴィスはジョーダネアーズをバックコーラスに従えて「ハウンド・ドッグ」をRCAスタジオでレコーディングをした。B面に「冷たくしないで」を録音して発売された。「ハウンド・ドッグ」はビルボード・ヒット・チャート28週間チャート・インし、最高2位まで上昇した。また「冷たくしないで」はナンバーワンとなリ、このレコードは1956年だけで600万枚以上売れたのであった。


音楽の世界でトップになり、テレビでも視聴率ナンバーワンをとったエルヴィスが、エンタテイメントの領域でまだ進出していないのは、映画であった。
マネジャーであるパーカーは映画関係書の注目を集めようとハリウッドの映画業界紙に広告を出した。もちろんエルヴィスの成功と人気をハリウッドの映画関係者が見逃すわけがなかった。

数ヶ月後、パラマウント映画プロデューサー“ハル・ウォリス”のスクリーン・テストを受けるためにハリウッドへ飛んだ。
ウォリスはすぐに、エルヴィスと3本の映画を撮ることにサインした。パラマウント社は最初の映画出演に10万ドル、2本目に15万ドル、3本目に20万ドル支払うことに同意した。
エルヴィスは、興奮しながらも不安ではあるが映画制作に挑戦することになった。
本当に演技ができるかどうか確信はないが、それにも関わらず映画俳優になることへの期待でワクワクしていた。
映画に出演する事は、歌っているときの彼のイメージから思いっきり変わるであろうことはエルヴィスも分かっていた。

歌うことしか知らないエルヴィスが、映画界に入ることにより彼のキャリアも人生も変化していくことを彼は少しずつ感じていたのであった。



写真:エルヴィス初の映画出演「ラブ・ミー・テンダー」の撮影の合間に撮ったもの。