第27話  出演料1250ドルから5000ドルにアップ

ジャッキー・グリースンのプロデュースとビッグ・バンドのリーダー、トミー&ジミー・ドーシーがホスト役で、このステージ・ショーが始まったのは1954年の夏だった。

しかし、このショーの視聴率は良くなかった。1956年、視聴率を上げるためにグリースンは、ロックン・ロール・シンギングでセンセーションを巻き起こしているテネシーからやってきた新人の歌手をこの番組に出演させることにした。
1956年1月28日の午後8時、エルヴィス・プレスリーは全国放送のテレビに初出演したのである。

エルヴィス、スコッティ、ビルそしてD.J.

クリーブランドのディスク・ジョッキー“ビル・ランデル”に紹介された後、エルヴィスとそのバンドは「シェイク・ラトル・アンド・ロール」と「アイ・ガット・ア・ウーマン」を腰をひねり回転させながら所狭しとステージを揺れ動きながら歌った。

エルヴィスが出演する時の基準になっているように、その夜もいつもより10代の観客が多かった。多くの若い女の子達がエキサイトし始め、若くてハンサムなエルヴィスの歌に酔い泣き叫んでいた。プレスリーが出演している間、ステージ・ショーの視聴率はドンドン上がっていった。

それは、競争相手のNBCが放映している「ペリー・コモ・ショー」を上回った。ショーに出演した後、視聴者から多くの手紙が来たり、新聞や雑誌に取り上げられた。それ以降に出演した時の視聴率も上がって行った。

プレスリーがショーを引き立てたより高い評価で意気揚々にもかかわらず、グリースンは、プレスリーに対して次のことを伝えた;「出演続行は出来ない。私は、きっぱりとあなたに言います。これで終わりです」

ステージ・ショーの出演が終わったことで、コロネル・パーカーは次の手を打った。
ミルトン・バール・ショーの出演交渉である。すぐに2回の出演が決まった。
ミルトンは、“アンクル・ミルティー(ミルティーおじさん)”と呼ばれるほど親しまれ、8年間、テレビのコメディー・キングとして活躍していた。

彼は別名「ミスター・テレビジョン」とも呼ばれ国民的人気タレントであった。
バールは、1948年に“テキサコ・スター・劇場”のホストとしてテレビに初登場。
後に、ショーのタイトルが「ザ・ビュイック・バール・ショー」に変更されが、人気の上昇と共に「ザ・ミルトン・バール・ショー」となった。

しかし、8年後次第に視聴率が下がりはじめた。ちょうどジャッキー・グリースンのステージ・ショーも人気が下がった頃にプレスリーを出演させた。と同じように、バールは観客からより多くの注目を浴びることと視聴率の増加の回復を狙ってエルビスと1回5000ドルのギャラで2回出演することにサインした。

写真:壁にエルヴィスの写真を貼り付ける熱狂的なファン。