第18話 やり手のマネジャー現れる

エルヴィス・プレスリーの初期の成功に関わったもう一人の人物が、コロネル・トム・パーカーだった。以前は劇場やカーニバルでの客の呼び込みをやっていた。

その後、カントリー・ミュージシャンのマネジャーに転職した男である。本名はアンドリア・コメリアス・ヴァン・クジクでオランダのブレダで1909年6月26日に生まれた。

彼は1929年までそこで住み、米国へ不法移民でやってきたので名前をトム・パーカーと名乗り、生まれをウェスト・ヴァージニアのハンティントンと言っていた。(エルヴィスはヨーロッパや日本へコンサート・ツアーを行ったことがなかった。パーカーは不法移民だったため、強制送還を恐れてパスポートを取得出来なかったからである)

パーカーは、1929年から1932年の3年間、陸軍の第64沿岸砲兵部隊の任務に就いていた。彼は除隊後の1932年にマリー・モット・ロスと結婚した。
それから、フェアーやカーニバルの呼込師として働き始めた。そして彼はペテン師(詐欺師)でもあった。

彼にはもっと不名誉な行為があった。グレイト・パーカー・ポニー・サーカスとコロネル・パーカーとダンシング・チキンズである。後者のダンシング・チキンでは、おがくずで覆ったホット・プレイトの上に生きた鶏を乗せたのである。鶏がダンスしたのは、音楽ではなく足下が熱いからであった。しかし、鶏の足が燃えるのだけは差し控えた。

パーカーは、1940年代、歌手のジーン・オースティンのショーをプローモートしたのをきっかけにミュージック・ビジネスに入った。パーカーの好きなプロモーション小道具は,歌手の出演スケジュールがでてくる数週間前から町中をチラシとポスターで覆うことにだった。

パーカーは、あのカントリー・ミュージックの大御所エディー・アーノルドのマネジャーを1942年から1951年までやり、エルビスの憧れのカントリー歌手ハンク・スノーのマネジャーも1954年から1956年まで続けた。

彼は、エルビスに多くの可能性を見た; しかしながら彼は、エルビスが、売れる歌手になるためにはさらに磨きをかけることが必要であることを知っていた。
パーカーは,時間をかけて獲得を狙った。

プロモーターとして、プレスリーを自分のクライアントにしたいことはわかっていたが、何にも急ぐことはないと考えていた。

一方、プレスリーはボブ・ニールと契約結んでいることもわかっていた。パーカーは、彼の両親に若いエルビスがどれくらい影響を及ぼされるかを見て、彼は注意を払いながら、最初は父親のヴァーノンに、次に母親のグラディスに近づき始めた。

1955年の夏、パーカーは自分のプロモーション会社「オール・スター・アトラクション」を通してエルヴィスのショーをやらないかとボブ・ニールに話を持ちかけた。
働きすぎて過労ぎみのニールは、パーカーの申し入れを喜んで受け入れた。

写真は、コロネル・パーカーとエルヴィス・プレスリー