第17話  ロック・アンド・ロールの誕生

世界は、エルビス・プレスリーに注目し始めた。 ビルボード誌は「彼はルイジアナ・ハイライドで最も人気の高い歌手」と述べ、ビルボードで第8回目の「最も有望なカントリー&ウェスタン・ヴォーカリスト」として選んだのであった。

米国中のDJは、レギュラー番組の中で突然プレスリーのレコードを流した。 新しい若者の音楽は、広範囲にわたって国中に広がっていった。
オハイオ州クリーブランドでは、DJのアラン・フリードが新しい音楽を「ロック・アンド・ロール(ロックン・ロール)」と呼んだ。

そして、エルビスは若者音楽の先駆者として素早く確立させていった。
1950年代の最も人気のあったタレント発掘番組「アーサー・ゴッドフレイ・タレント・スカウト」のオーディションに出演したエルヴィスにみんなの注目が集まった。
エルヴィス・プレスリーとブルームーン・ボーイズは「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」を歌った後、ゴッドフレイと審査員からきっぱりと拒絶された。

パット・ブーンも同じショーに出演、審査員から受け入れられて結局一等賞を勝ち取った。 その2年後に、バディー・ホリーとクリケッツがオーディションを受けたが、これもまたはねつけられた。ゴッドフレイはロックンロールが分からなかったのである。
このショーは1958年になくなった。

余談であるが、1955年5月にエルヴィスが4枚目のシングル・レコード「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」を出した翌月の6月にビル・ヘイリー&コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がビルボードでナンバーワンとなった。
この曲は1954年にビルがデッカ・レコードに移籍してその4月にレコーディングされたが、さほどヒットしなかった。55年にMGM映画「暴力教室」の中で使用され忽ち大ヒットしたのであった。

ビル・ヘイリーはエルヴィス・プレスリーのようにスパー・スターとして扱われることはなかったが、“ロックン・ロールの父”として後世に語り継がれることになった。
因みに、ビル・ヘイリーはプレスリーより10年早い1944年のデビュー。1952年に「クレイジー・マン・クレイジー」がヒット。55年の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の大ヒット。そして「シェイク・ラトル・アンド・ロール」「ディム・ディム・ザ・ライツ」「マンボ・ロック」と立て続けにヒットを飛ばした。


写真:ナタリー・ウッドがエルヴィスのために作ったとされるブルー・ベルベットのシャツを着て歌うエルヴィス。