ペギー・マーチ シングル・レコード

1950年3月ペンシルベニア州ランスデールの生まれ。本名マーガレット・バッタヴィオ。芸名は、愛称ペギーと3月生まれだったのでマーチとした。当時ペギーは身長が145cmだったので、プロデューサーがリトルを付けて“リトル・ペギー・マーチ”と名付けた。芸名からリトルをはずしたのは、彼女が16才の時だった。

1963年4月に「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」が全米ナンバー・ワンとなる大ヒット。一躍スターダムに躍り出た。「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」がナンバー・ワンになった時、ペギー・マーチは13才1ヶ月と13日で、15才7ヶ月と7日で「アイム・ソーリー」が全米1位になったベレンダ・リーの記録を破り、最年少記録を樹立した。

5才の時に、タレント・コンテストに合格し地元のラジオやテレビに出演するようになる。その後、RCAのオーディションを受け62年の春に契約。シングルレコードをリリースした後、プロデューサーの元へ「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」が届いた。作曲は、フランスの音楽家でオーケストラのリーダー、ポール・モーリアが“デル・ローマ”のペン・ネイムで書いたもの。すでにペトゥラ・クラークが「愛のシャリオ」の名でレコーディングし、フランスでヒットしていた。この曲に英語詞を付けてペギーがレコーディング、1963年2月に発売されたのである。

その後、「プリンセスではないけれど」「さよなら初恋」のヒットを飛ばし、ヨーロッパや日本で公演ツアーを行った。日本へ来たときにはレコーディングも行い「いつでも夢を」「霧の中の少女」「忘れないは」「なぜだか判らない」など日本の曲を日本語で吹き込んでいる。69年にマネジャーで夫のアーニー・ハリスとドイツに渡り12年間滞在した。79年頃から作詞作曲を始め、2曲のヨーロッパ・ナンバーワンを獲得している。ヨーロッパから帰国後、温暖な気候の南カリフォルニアに居を構えた。

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