ビートルズ

1960年代前半までアメリカン・ポップスが主流を占めていた洋楽の世界に、突如と現れたイギリスのロック・グループ「ザ・ビートルズ」。1962年に「ラブ・ミー・ドゥ」でデビュー。その後、音楽界において数々の偉業を成し遂げ、エリザベス女王から勲章までもらった。また彼らの音楽やその活動を通して、様々な影響を世界中の人々に与えた。

メンバーは、リダー格のジョン・レノン(1940年10月9日生まれ)、ポール・マッカトニー(1942年6月18日生まれ)、ジョージ・ハリスン(1943年2月25日生まれ)、リンゴ・スター(1940年7月7日生まれ)の4人グループ。デビューから1970年に解散するまでに作られた200曲以上のオリジナル作品のうちジョンとポールが作詞作曲を担当。ジョージも加わった作品も多くある。

アマチュア時代、年代は確かではないが、1955から56年頃に当時10代のジョンは「クォーリーメン・スキャッフル・グループ」と言う名前でバンドを組んでいた。1957年ポールと運命的な出会いをする。翌年ポールの紹介でジョージと出会い、ビートルズのオリジナル・メンバー3人が揃った。ビートルズの序曲の始まりである。

当時、リヴァプール市内にある無名のクラブに出演していた。この時、グループ名を「ムーン・ドッグス」とか「ムーン・シャイナーズ」と名乗っていたと言われている。1961年にドイツのハンブルグに遠征。帰国後、リバプールにあるクラブ「ザ・キャヴァーン」に出演。連夜、満員盛況の人気ぶりで若者のハートを魅了した。1962年4月、EMIレコードのプロデュサー、ジョージ・マーティンと出会う。契約を結び「ハウ・ドュ・ユー・ドュ・イット」をレコーディング。しかし、メンバーもディレクターもOKを出さず、市販されなかった。後にこの曲は1963年に、ゲイリー&ペイスメーカーによってイギリスのヒットチャートで1位を獲得した。

心機一転のためメンバーは、グループ名を「ビートルズ」に変更。1962年9月、ビートルズは再びバーロフォン(日本ではオデオン・レーベル)のレコーディング・スタジオで「ラブ・ミー・ドゥ」を録音。これが記念すべきビートルズのデビュー曲となった。この時のレコーディングでドラムを担当していたのは“ピート・ベスト”で、彼のスティックさばきが下手で見るにみかねたプロデューサーのジョージ・マーティンが、ロリー・ストーム&ハリケーンズと言うロック・バンドでドラムを叩いていた「リンゴ・スター」を呼び寄せたのである。その時、リンゴはドラムの音をカバーするためにタンバリンを叩いていた。このデビュー曲は、同年10月に発売されリヴァプールでヒットした。

続く1963年に出した「プリーズ・プリーズ・ミー」が大ヒット。1963年「フロム・ミー・トュ・ユー」1964年「抱きしめたい」「シー・ラブズ・ユー」と立て続けに大ヒットを飛ばし、人気を不動のものとした。1964年にアメリカ公演を行い、本国イギリスを凌ぐ人気でビートル・マニア現象を世界に巻き起こした。映画「ビートルズがやって来るヤア・ヤア・ヤア」が公開されると人気に拍車がかかり、ついに世界制覇を果たした。1966年には日本公演を行って、ファンを熱狂させた。

1967年8月にマネジャーのブライアン・エプスタインが死去。これを機にグループ間のバランスが崩れはじめ、各自バラバラに活動するようになっていった。1969年1月最後のライブ演奏をアップルレコード社の屋上で行った。1970年4月にポールが脱退宣言をした。そして、ビートルズのラスト・アルバム「アイビー・ロード」を制作した後、解散となった。解散後も、多大な影響を与え続けている。

1980年12月8日、ジョン・レノンは熱狂的なファンによる凶弾に倒れた。享年40才。偉大な音楽家の痛ましい死であった。その後、2001年11月29日にジョージ・ハリスンが肺ガンのため死去。58才だった。4人のメンバーのうち2人がいなくなった後も、今なおビートルズは生き続けている。

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