オールディーズコレクター岡村の「Coffee Break」

39

カバー・ポップスの時代
洋楽にのめり込み始めた私は、ラジオ・テレビの音楽番組を欠かさずに聴きました。当時(1960年代前半)テレビでは、ザピーナッツが司会をしていた「ヒット・パレード」、クレイジー・キャッツがメイン・キャスターだった「シャボン玉ホリデイ」などがありました。その番組では、海外のポップスを日本人歌手が日本語の歌詞で歌っていました。


 一方ラジオは、多彩な音楽番組が各放送局で流され海外のポップスを「ヒット・チャート」形式で紹介していました。「森永キャンディー・ベスト・ヒット・パレード」「今週のベスト10」「魅惑のリズム」「ザ・フレッシュ・カーニバル」「9500万人のポピューラー・リクエスト」などがあり、ヒット・チャートの順位をノートに書き込むのが習慣となりました。毎週変わる順位を書くのが楽しみのひとつでした。他にコロンビアの「L盤アワー」やビクターの「S盤アワー」もあり、当時は海外ポップスのブームでした。


 洋楽のヒット曲を日本人歌手がカバーしてヒットした曲も数多くありました。ジミー・ジョーンズの「グッド・タイミング」を坂本九が「すてきなタイミング」の邦題でカバーしてヒットさせました。「子供じゃないの」は弘田三枝子のオリジナルと錯覚させるほどに本家のヘレン・シャピロより彼女の方がピッタリとはまっていました。ジーン・ピットニーの「ルイジアナ・ママ」も飯田久彦がカバーしてヒットさせました。「パイナップル・プリンセス」は田代みどりがオリジナルのアネットに負けず劣らずの可愛らしさで歌い大ヒットしました。他にカバー・バージョンでヒットした曲と言えば中尾ミエの「可愛いベイビー」(コニー・フランシス)、九重祐三子の「シェリー」(ザ・フォーシーズンズ)、伊東ゆかりの「大人になりたい」(コニーフランシス)、森山加代子の「ジョニー・エンジェル」(シェリー・フェブレー)、山下敬二郎の「ダイアナ」(ポール・アンカ)、平尾昌晃の「恋の片道切符」(ニール・セダカ)、小坂一也の「ハートブレイク・ホテル」(エルヴィス・プレスリー)などここで紹介しきれないほどのカバー・ヒット曲がありました。 


 これら洋楽の日本語の歌詞を書いた代表的な作詞家は“漣健児”でした。本名は「草野昌一」さん。ミュージック・ライフ誌の初代編集長でこの雑誌の創設者でもあります。全くの翻訳ではないこれらの歌詞は漣健児の創造的頭脳が作らせた業物であると思います。60年代は「カバーポップスの時代」でもあったわけです。
私が初めて耳にした洋楽、、、
 私が初めて耳にした洋楽は、ラジオから流れていたスリー・サンズの曲でタイトルは「誇り高き男」でした。当時テレビはなくラジオが唯一の娯楽で情報源でした。---日本でテレビが発売されたのは1953年(昭和28年)頃で、その年に民放のテレビ局日本テレビが開局。1958年頃に各家庭に普及し始めました。この頃アメリカではテレビはもちろんのこと電気冷蔵庫、電気洗濯機など電化製品がすでにありました。1950、60年代はアメリカの黄金時代と呼ばれていました。

 話を元に戻して、「誇り高き男(THe Proud One)」はアメリカ20世紀フォックスの西部劇映画の主題曲で1956年に上映され大ヒットしました。私がまだ小学生の頃のことです。


 ビビビビ・ビン・ビ・ビ・ビビビビ・ビンというイントロから始まり、メロディーを口笛が奏でる(口笛のように聞こえるのですが、ハモンド・オルガンかも知れもせん)哀愁を帯びた旋律は大変印象的でした。もちろんその時はタイトルなど知る余地もありません。ただラジオから流れているのを聴いていただけでした。それからしばらく洋楽を聴くこともありませんでした。


 中学生のある日、ラジオのスウィッチを入れてダイアルを回していたら軽快な曲が流れてきました。気が付けば身体が自然にリズムを取って動かしている自分がいました。どんな曲だったかは鮮明に覚えていないのですが---「ロコモーション」「シェリー」「ボビーに首ったけ」など---それを聴いて心がウキウキしたことが記憶に残っています。それからというもの、洋楽の番組に夢中になり私のレコード・コレクションが始まりました。
最初は多くの観客を魅了したが、ラスベガスの観客は、年寄りが多く保守的な人ばかりであった。これまでのコンサートのように観客のほとんどが若者であった時とは明らかに違ったのである。

まるで彼らは、エルヴィスのショーの横でやっているサーカスのつけたしに出席しているかのように、人々は単なる好奇心からやって来たのである。

そこには、鋭く叫びたてる女の子と過激なファンはいなかった。そこにいたのはスパンコール(装飾品)を飾った年輩で中流階級のギャンブラーだった。
最初の数ショーの後、エルヴィスはコメディアン“シェキー・グリーン”よりも下の2番目のプログラムに落とされた。

最初の週が終わるまでに、フロンティアは彼の契約を破棄することに同意した。
ラスヴェガスを出発すると同時に、エルヴィスは、10年間は二度とこの町で演奏しないと誓った。

エルヴィスがラスヴェガスにいる間に1つ良いことがあった。それは、黒人バンド「フレディー・ベル&ザ・ベルボーイズ」の歌と演奏を見に行ったことだった。彼らは、1953年に“ママ・ソートン”が歌ってヒットした「ハウンド・ドッグ」の歌詞に「ユー・エイン・ネバー・コート・ア・ラビット、 ユー・エイン・ノー・フレンド・オブ・マイン」のフレイズを付け足して歌っていた。

それに影響を受けたエルヴィスは、以後自分のショーで「ハウンド・ドッグ」を歌うときはその歌詞を付け足すことを決めた。

エルヴィスがショーの最後にそれを使い始めるとたちまち人気が出た。
この歌は、リズム&ブルース歌手「ウィリー・マエ“ビッグ・ママ”ソートン」のためにジェリー・リーバーとマイク・ストローラーが1952年に書いた作品であった。

1956年7月2日、エルヴィスはジョーダネアーズをバックコーラスに従えて「ハウンド・ドッグ」をRCAスタジオでレコーディングをした。B面に「冷たくしないで」を録音して発売された。「ハウンド・ドッグ」はビルボード・ヒット・チャート28週間チャート・インし、最高2位まで上昇した。また「冷たくしないで」はナンバーワンとなリ、このレコードは1956年だけで600万枚以上売れたのであった。


音楽の世界でトップになり、テレビでも視聴率ナンバーワンをとったエルヴィスが、エンタテイメントの領域でまだ進出していないのは、映画であった。
マネジャーであるパーカーは映画関係書の注目を集めようとハリウッドの映画業界紙に広告を出した。もちろんエルヴィスの成功と人気をハリウッドの映画関係者が見逃すわけがなかった。

数ヶ月後、パラマウント映画プロデューサー“ハル・ウォリス”のスクリーン・テストを受けるためにハリウッドへ飛んだ。
ウォリスはすぐに、エルヴィスと3本の映画を撮ることにサインした。パラマウント社は最初の映画出演に10万ドル、2本目に15万ドル、3本目に20万ドル支払うことに同意した。
エルヴィスは、興奮しながらも不安ではあるが映画制作に挑戦することになった。
本当に演技ができるかどうか確信はないが、それにも関わらず映画俳優になることへの期待でワクワクしていた。
映画に出演する事は、歌っているときの彼のイメージから思いっきり変わるであろうことはエルヴィスも分かっていた。

歌うことしか知らないエルヴィスが、映画界に入ることにより彼のキャリアも人生も変化していくことを彼は少しずつ感じていたのであった。



写真:エルヴィス初の映画出演「ラブ・ミー・テンダー」の撮影の合間に撮ったもの。
サリヴァン・ショーの出演後、マネジャーのパーカーは、プレスリーのテレビ出演料を5万ドルから30万ドルに引き上げた。その結果、1960年に軍隊を除隊して戻って来るまでテレビに出演する事はなかった。

それにも関わらず、1956年はエルヴィス・プレスリーにとって大躍進する年であった。

彼はメイジャー・レコード会社RCAとの取引に署名し、そして、彼のレコードはビルボード・チャートの主要3部門でトップに立つと共に、ラジオで最も多く流されたレコード歌手もエルヴィスであった。また、定期的に行われる彼のコンサートのチケットはすべて売り切れた。

彼は十代の男の子(ティーンエイジ・ボーイズ)の反逆の役割をするモデルとなり、十代の女の子(ティーンエイジ・ガールズ)の淫らな想像をさせるアイドルであった。
そして、すべてが最高の視聴率となるテレビの歴史上最も多くの人々が見たエンタテイナーだった。

貧しくても、もがきながら奮闘して歌い続けたエルヴィス・プレスリーは、1年も経たないうちに、新しい音楽「ロックン・ロール」のキングとなりミリオネアー(大富豪)になったのである。

しかし、1956年、エルヴィスは一つの失敗をした。パーカーがラスベガスのニュー・フロンティア・ホテルで4月23日から2週間出演する契約をすることになっていた。1950年代のラスベガスは、ニューヨークに次いで2番目に大きなショー・ビジネスの町だった。

パーカーは、ヴェガスでセンセーションを巻き起こすと思った。
ところがこの契約は、不運な災難を引き起こすこととなった。

写真:1956年の年末に撮ったもの。

サリヴァンの「腰から下は映さない」という「検閲」は、プレスリーをこれまで以上に有名にした。

上半身だけを撮影するということは、サリヴァンが今の論争を無視して、今まで通り全身を撮ることよりも、視聴者を悩まし惹きつけるものだった。
エルヴィスは、いつも通りのパフォーマンスで腰を動かせた。そして、スタジオの観客は気が狂ったように叫んだ。

しかし、自宅でテレビを見ている視聴者は、エルヴィスの上半分だけしか見ることが出来なかった。しかし、スタジオの観衆の叫びによって、彼らはかなりワイルドな何かが下の方で行われているに違いないということを知っていた。

ここでエルヴィスは、「ハウンド・ドッグ」「ラブ・ミー・テンダー」「ハートブレイク・ホテル」「冷たくしないで」「トゥー・マッチ」と「マイ・ブルームーン・ターンズ・トゥ・ゴールド・アゲイン」そして「ピース・イン・ザ・ヴァレー」の7曲を歌った。

ショー終了後、エドはエルヴィスにさよならを言うためにステージに出て、そして観衆に向かって次のように話した。

「私はこれが本当の礼儀正しい立派な男の子であるとエルヴィス・プレスリーと国に言いたかったのです。そして、大御所、一流のタレント、有名人等が我々のショーに出演していますが、これほど楽しい経験はこれまでありませんでした」。

サリヴァン自身が自発的にこの声明を言ったのかどうか、あるいは、トム・パーカーが「エルヴィスの腰から下は映さない」ことに対する返礼として「交渉したか」どうかは不明なままであった。


写真:サリヴァン・ショーに出演前のエルヴィスとエド・サリヴァン。真ん中の女性は正体不明のファン?


プレスリーの裏番組で、その夜、テッド・マックのオリジナル素人番組「全国アマチュア・タレント選手権」が放送されていた。

そのショーの決勝進出者の中に、ロカビリー歌手のジョニー・バーネットがいた。ジョニーは、以前エルヴィスが務めていた会社“クラウン・エレクトリック社”で一緒に働いていた仲間だった。(*ジョニー・バーネットは、日本でも「片目のジャック」「夢見る恋」等のヒット曲で知られている)

エルヴィスが10月28日に2回目のサリヴァン・ショーに出演をしたとき、司会者であるエドは新しい「ロックンロールの帝王」を紹介するために舞台上にいた。しかし、彼はテレビ撮影では決してエルヴィスと話そうとはしなかった。

しかし、サリヴァンは、エルヴィスが初出演した映画「ラブ・ミーテンダー」の監督であるロバート・ウェッブとインタビューした。

エルヴィスは「ハウンド・ドッグ」「冷たくしないで」「ラブ・ミー・テンダー」「ラブ・ミー」そして「ハウンド・ドッグ」を歌った。その後、ミリオン・セラーとなった「ラブ・ミー・テンダー」の“ゴールデン・レコード”が贈呈された。

エドサリヴァン・ショーの3回目の出演は、1957年1月6日で、おそらく彼の最も悪名高いものであった。

サリヴァンは視聴率ではとても高い評価を得たことを喜び、自分のショーに若いロックンローラーが出演する事によって、重要なマスコミからの注目を浴びた。
しかし、プレスリーのライブパフォーマンスでの明白な性的関心を少し心配するようになっていた。

エルヴィスの揺れるヒップとドンドンいう骨盤は、その時メディアの見出しの格好の材料となった。

国中のPTA、そして教会と市民グループは、激しく抗議した。
サリヴァンは、エルヴィスが何かを彼のパンツに詰め込んでいて、それを若い女の子に

向かって振っていたという噂にひどく気にかけるようになった。
そこで、最終的にサリヴァンは、エルヴィスのウエスト(腰)から上だけを撮影するように命令した。そして、うまくすべての「骨盤の問題」を避けたのであった。


写真:サリヴァン・ショーで歌うエルヴィス


あのショーに出て良かったことは、エド・サリバンの注目度を増したことだった。

サリヴァンは、エルヴィスの観客動員力をもはや無視することができなかった。
スティーブ・アレンはその夜、テレビ視聴率55パーセントを獲得したのに対して、サリヴァンは15パーセントしかなかったのである。

それで、プレスリーに対して「私のショーに彼が出演する事はない」と以前に宣言したにもかかわらず、サリヴァンは彼と3回の出演契約を結んだのだった。
例によって、エルヴィスのマネジャーであるトム・パーカーは、手強い交渉者であることを証明づけた。

エルヴィスは3回の出演料として、50,000ドルを受け取った。今までに、テレビのバラエティー・ショーでこれほどの高額を受け取ったタレントは誰もいなかった。
テレビは若いレコード・スターにとって最も重要な会場であった。そして、エド・サリヴァン・ショーは、テレビ・バラエティー・ショーの頂点であった。

サリヴァンは、元新聞のコラムニストで、日曜日のゴールデンタイムの夜の時間帯を支配していた。

プレスリーのサリバン・ショーの最初の出演は、1956年9月9日であった。
サリバンは、8月6日、コネチカット州のシーモアにほど近いところで車と正面衝突するという大事故を起こしたので、彼自身はショーに出ることが出来なかった。

その日は、チャールズ・ラーフトンが、ホストとしてサリヴァンの代わりに出演した。
エルヴィスの歌は、ニューヨークとハリウッドを結び中継で放映され、「冷たくしないで」「ラブ・ミー・テンダー」「レディー・テディー」そして「ハウンド・ドッグ」の4曲を歌った。

この日のショーのゲストはエルヴィスの他に、ドロシー・サーノフ、エーメン・ブラザーズ、ザ・ヴァガボンズとインディアン・ヴォーカリストのアムル・サニが出演した。
プレスリーのサリヴァン・ショー初出演の評価は、びっくり仰天するほどの視聴者数だった。

ショーの視聴率が何と82.9パーセントに達したのである。これはテレビ所有者の5人中4人が見たことになる。

この驚異的な数字は、断然テレビ史上で最高のものと評価された。1964年にビートルズが、エド・サリヴァン・ショーに出るまでこの記録は破られることがなかった。


写真:エド・サリヴァン・ショーで「ラブ・ミー・テンダー」を歌った時のエルヴィス・プレスリー

プレスリーが、再びテレビ出演する事を要請するために、オクラホマ州タルサのディスク・ジョッキー、ドン・ウォーレスが、先頭に立って嘆願書を集め提出したのであった。
アレンは、そのことを誇らしげに、喜びながら発表したのであった。

この後すぐに、エルヴィスは、ジョダネアーズをバック・コーラスに従えて「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラブ・ユー」を歌った。

次に、カーテンが開きバンドのメンバーが現れた。
舞台はカントリー&ウェスタン調にセットされ、アレンはカウボーイ・ハットをかぶって出てきた。

アレンは観客に向かってジョークとユーモアを交えながら話し続けた。
その後すぐに、エルヴィスは「ハウンド・ドッグ」を熱唱した。

ショーの後半に、アレンは、コメディー・タッチの寸劇を企画した。
「レインジ・ラウンドアップ」と言うタイトルで、「ガラガラヘビのグリフィス」役をアンディ・グリフィス、そして「大草原の小さな花、サボテン・コカ」役でアイモジーン・コカと共演させた。 

エルヴィスは「タンブルウィード・プレスリー」(*タンブルウィードは、ヒユの類で枯れると根から折れて吹き散らされる砂漠の雑草)役を演じた。
この寸劇は、貧しい南部人とカントリー・アンド・ウエスタン音楽をからかおうとした一連のとりとめのない、支離滅裂なジョークで構成されていた。

「あのような形でショーに出演したことを残念に思う」そして「自分の本来のイメージが損なわれなかったことを願っている」と後でエルヴィスは語った。


エルヴィスが「神話」とみなした者の偽りを暴こうとしないでブラブラしていることが出来ないメディア・パーソナリティーがいた。それは、テレビ番組のホストを務めるスティーブ・アレンであった。

アレンは、粗くて教養がないようなロック&ロールを見て批判するある程度の教養人で自分の流儀(スタイル)を持っている皮肉屋でもあった。
1956年、彼は8:00から9:00の時間帯でゴールデンタイムと呼ばれる日曜の夜の番組で、エド・サリバン・ショーとの視聴率争いを戦っている最中であった。

スティーブ・アレン・ショーの第2弾(以前に、1950年から1952年までNBCでアレンのショーを放送していた)は、ゲストとしてキム・ノバック、サミー・デイビス・ジュニアとビンセント・プライスを迎えた。ちょうどエルヴィスが出演する1週前が初放送日であった。
同時に、「田舎者のロック&ローラー」をからかいながらも、アレンは視聴率を上げるためにエルヴィスを自分のショーに出演させることを決めたのであった。

エルヴィスのマネジャー、パーカーは、当初エド・サリヴァン・ショーに出演させるために契約しようとエドに申し入れていた。
しかし、「私には、どんな代価を払っても私のショーで彼が出演することはないだろう」とサリヴァンは、この時きっぱりと言い放った。

1956年7月1日、ショーの舞台裏から小さな音ではあったが咳払いが聞こえた。その直後に、アレンが今日のゲストであるエルヴィス・プレスリーの紹介をはじめた。
我々の次のゲストは、みなさんも良くご存じのあの“エルヴィス・プレスリー”です」と言ったとたんに観客から悲鳴と共に大きな拍手が鳴り響いた。

悲鳴と拍手の鳴りやんだ後アレンは、エルヴィスがメディアに報じられたことについて話しはじめた。

「ある人は、一方的に解釈しているように思われる、またある視聴者は、違った解釈をされている。いろんな見方があるでしょうが、我々はお客様にすばらしいショーを見ていただくためにやるだけです。

家族全員が見ることができて、楽しむことができる、そして、我々はいつも通りにショーをやるだけです。そして、今夜、新しいエルヴィス・プレスリーを見ていただきます。みなさんはエルヴィスの最初の復帰ステージと呼ぶかも知れませんが、新しいエルヴィス・プレスリーを紹介出来ることにすごい喜びがあります」

歓喜と悲鳴に迎えられて、エルヴィスが舞台中央に登場した。
多くの観客はがっかりした。予想に反して、燕尾服と青のスエードの靴で着飾ったフォーマル・イブニング・スーツで現れたからである。


写真:スティーブ・アレン・ショーに燕尾服姿で登場したエルヴィス


エルヴィスは、数々の道徳的な論争に関して時々疑うようであった。

「私は、人々に対して悪い影響与えていると言うことが少しも見えて来ないのです。私は、理解できない。つまり、ロックンロール音楽が、どのように大人達に対して反抗的な態度をとらせると言うのだろうか?」

聖職者の何人かが言っているように、テレビと音楽評論家は「エルヴィスが人間の姿をした悪魔」であると必ずしも思っているというわけではなかった。その代わりに、多くは彼を「才能がない悪戯っ子」とみなしました。

ミルトン・バール・ショーの公演の後、ニューヨーク・タイムズの批評家ジャック・グルドは「識別できる歌唱力がない」とプレスリーについて書いた

「・・・言葉に言い表せないほどに退屈でうんざりさせるもの・・・彼の1つの特徴は、これまでは主に下品なストリップショーの金髪の可愛い子ちゃんが踊るものと同じような特徴を持った体の動きである」

また、批評家のジョン・クロスビーは、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙に投稿し、エルヴィスを「口では言えないほど才能はなく低俗である」と言い、ニューヨーク・ジャーナル・アメリカのジャック・オブライアンは「彼を見ていると、ストリッパーとモルトミルク(麦芽粉乳と牛乳を混ぜてアイスクリームに風味を加えた飲み物)を同時に見ているようだ」と書いた。

それに加えて「よろめいている悪ガキ」、「吼える田舎者」、「南の地震」、「バリトンのマリリンモンロー」のようないくつかのあからさまなあだ名を付けられた。そして「エルヴィスはペルヴィス(骨盤)」が定着していった。

この最後のあだ名に対してプレスリーは次のように反応した:「大人から聞いたことを、子供達が真似て表現するということと同じようなものです」
これらの攻撃と非難にもかかわらず、エルヴィスのレコード売り上げは上昇し続けた。

1956年9月までに、RCAはエルヴィスのレコードが1000万枚以上売ったと発表した。
今までの反抗的なイメージの報道や非難に対して、エルヴィスは、謙虚に礼儀正しく報道陣と向き合った。

「私は、今回起こったことに対してとても感謝します」そして「冗談ではなく、私の声は普通の声です。人々が見に来るものは、私がそれをどのように使って歌いお見せするかということです。私が歌う間じっと立っているならば、私は死人同然です。

それなら、私は、トラックの運転手に戻った方がいいです」と言いきった。

1956年までのプレスリーの人気は、主にアメリカの南で南西部に限られていた。
しかし、コンサートやミルトン・バール・ショーのテレビ出演、そしてレコードがヒット・チャートのトップの座を獲得する事によりエルヴィスは、アメリカ国中の人々の脳裏に否応なしに焼き付くことになるのであった。

そしてまた、アメリカのほとんどの若者が新しい音楽の才能がある救世主としてエルヴィスを受け入れはじめた。
しかし、多くの大人たちは今まで培ってきた国の価値感とモラルに反する危険な脅威とみなしたのであった。

宗教指導者が、公然と「エルヴィスがティーンエイジャーに対していかに腐敗させる悪影響を与えている」かについて話すというこれまでにはなかった事態も起こったのであった。

彼らは、エルヴィスがアメリカの若者に取り返しのつかないダメージを与える前に、厳しく躾る必要がある非行者と決めつけたのであった。

ライフ誌は、1956年プレスリーの特集記事で「種類の異なるアイドルと言い、ひどく市民のリーダーや聖職者と一部の両親との間で不穏な状況となった」と報じた。
ニューヨークのグリニッジビレッジ地区にあるセント・ジョンズ・エスピコカル教会のチャールズ・ハワード・グラフ師は、プレスリーを「セックスの托鉢僧」とまで言った。

中西部の一部のラジオ局は、プレスリーのレコードとロックンロール音楽の放送を禁止した。この状況下で、皮肉にも多くの主流アメリカ人がプレスリーを彼らの子供たちにとって悪影響を及ぼす者とみなした。

プレスリーの荒々しさの裏側には、本来の素朴な人間性があった。年上の人には敬語を使う礼儀正しい、正直で誠実な青年であった。また、ペプシ・コーラのような炭酸の強い飲み物は飲まず、特別な時にだけ吸う葉巻以外は一切たばこは吸わなかった。

エルヴィスは21才で、もうすぐにミリオネアー(百万長者 *現在なら億万長者)になるけれど、郊外で質素な家に両親と共に住んでいた。
エルヴィスにとって家族は最も大切なものであった。彼は母との強い絆があり、死ぬまで彼の近くで家族を養い続けることだった。

娯楽のために、エルヴィスは映画、遊園地とローラースケートリンクに行くのが好きでした。しかし、人気が出て認知度が上がるに連れて外出も難しくなってきた。

彼が映画を見るか、ローラースケートに行きたい時は、営業時間が終了した後に劇場またはローラースケート場を貸し切って、彼の友人全員を招待した。

エルヴィスの余暇は、徹夜して遊び日中に寝るというパターンで、彼のこのような過ごし方は生涯の習慣になった。


1956年4月3日、サン・ディエゴに停泊している米国軍艦「ハンコック」のデッキからテレビ中継された。エルヴィスは「シェイク・ラトル・アンド・ロール」「ハート・ブレイク・ホテル」そして「ブルー・スエード・シューズ」の3曲を歌った。

そのショーでは、短いコメディー寸劇にも登場した。“アンクル・ミルトン”がエルヴィスの双子の兄弟役を演じた。

このショーのテレビ視聴者は、おおよそ4600万人に達したと報道された。
サン・ディエゴでのテレビ中継と同年6月5日放送の「ミルトン・バール・ショー」の出演で、エルヴィス・プレスリーはしっかりと世間の目に焼き付かれた。

プレスリー現象は、もはや無視することができなくなってきた。テレビはエルヴィスを追っかけ放送した。そして、正に「アメリカのリビング・ルーム(お茶の間)」の真ん中で、腰をくねらせた彼独特のパフォーマンスを撮り続けた。

エルヴィス・プレスリーは、その時すでに、影響力を持ち始めていた。
ハートブレイク・ホテルとサン・レコード時代の曲が再リリースされポップ、カントリー、そしてリズム&ブルースの3部門を独占したのである。

エルヴィスは、定期的にテレビ出演し、コンサート・ツアーも拡大していった。アメリカ中のティーンエイジャーたちがプレスリー・マニアに巻き込まれていった。
彼のコンサートはいつもチケットが完売となった。コンサートでは、泣いたり、叫んだり殺気立った十代の女の子でいっぱいだった。

プレスリーの些細なパフォーマンスで失神する子もいたぐらいである。エルヴィスは、抑圧された1950年代のティーンエイジャーたちのアイドルなった。
彼はアメリカ南部で育った貧しい少年だったが、それをバネにしてスターの座を勝ち取った。

エルヴィスは6フィート(180センチ)で背が高くて、ヘアー・スタイルはグリースで固めたオールバックで、危険なほどにハンサムであった。
ステージでは、エルヴィスは唇を歪め、腕を振って、腰を回して歌うセクシー・シンギングで観客を魅了した。

厳しく躾られ「抑圧された時代」に育ったティーンエイジャーによって賞賛され、歓迎された。エルヴィスは派手な衣類、キャデラック、そしてオートバイとロックンロールが好きだった。

彼は、反抗期である十代の象徴になったのである。
十代の男性は彼を賞賛し、そして、十代の女の子は彼を敬愛し心酔していった。
エルヴィスの多くのファンは、彼の家の外で待ち構えていた。そして、垣根の上に昇り窓からじっと彼の来るのを見つめていた。

コンサートが終わると、待ち構えていたファンに揉みくちゃにされることはいつものことであった。

ジャッキー・グリースンのプロデュースとビッグ・バンドのリーダー、トミー&ジミー・ドーシーがホスト役で、このステージ・ショーが始まったのは1954年の夏だった。

しかし、このショーの視聴率は良くなかった。1956年、視聴率を上げるためにグリースンは、ロックン・ロール・シンギングでセンセーションを巻き起こしているテネシーからやってきた新人の歌手をこの番組に出演させることにした。
1956年1月28日の午後8時、エルヴィス・プレスリーは全国放送のテレビに初出演したのである。

エルヴィス、スコッティ、ビルそしてD.J.

クリーブランドのディスク・ジョッキー“ビル・ランデル”に紹介された後、エルヴィスとそのバンドは「シェイク・ラトル・アンド・ロール」と「アイ・ガット・ア・ウーマン」を腰をひねり回転させながら所狭しとステージを揺れ動きながら歌った。

エルヴィスが出演する時の基準になっているように、その夜もいつもより10代の観客が多かった。多くの若い女の子達がエキサイトし始め、若くてハンサムなエルヴィスの歌に酔い泣き叫んでいた。プレスリーが出演している間、ステージ・ショーの視聴率はドンドン上がっていった。

それは、競争相手のNBCが放映している「ペリー・コモ・ショー」を上回った。ショーに出演した後、視聴者から多くの手紙が来たり、新聞や雑誌に取り上げられた。それ以降に出演した時の視聴率も上がって行った。

プレスリーがショーを引き立てたより高い評価で意気揚々にもかかわらず、グリースンは、プレスリーに対して次のことを伝えた;「出演続行は出来ない。私は、きっぱりとあなたに言います。これで終わりです」

ステージ・ショーの出演が終わったことで、コロネル・パーカーは次の手を打った。
ミルトン・バール・ショーの出演交渉である。すぐに2回の出演が決まった。
ミルトンは、“アンクル・ミルティー(ミルティーおじさん)”と呼ばれるほど親しまれ、8年間、テレビのコメディー・キングとして活躍していた。

彼は別名「ミスター・テレビジョン」とも呼ばれ国民的人気タレントであった。
バールは、1948年に“テキサコ・スター・劇場”のホストとしてテレビに初登場。
後に、ショーのタイトルが「ザ・ビュイック・バール・ショー」に変更されが、人気の上昇と共に「ザ・ミルトン・バール・ショー」となった。

しかし、8年後次第に視聴率が下がりはじめた。ちょうどジャッキー・グリースンのステージ・ショーも人気が下がった頃にプレスリーを出演させた。と同じように、バールは観客からより多くの注目を浴びることと視聴率の増加の回復を狙ってエルビスと1回5000ドルのギャラで2回出演することにサインした。

写真:壁にエルヴィスの写真を貼り付ける熱狂的なファン。

1カ月も経たないうちにこの曲は、ビルボード・ポピュラー・ミュージック・ヒット・チャートでトップ40に飛び込んできた。4月になって「ハートブレイク・ホテル」は、6週間トップの座にいた「ザ・プアー・ピープル・オブ・パリス(パリの可哀いそうな人々)」(レス・バクスター)を抜いてヒット・チャート・ナンバーワンとなった。

年4月21日に1位になってから8週間連続でトップの座にいた。
この歌は、ビルボードのカントリー・ミュージック・・ヒット・チャート及びリズム・アンド・ブルース・ヒット・チャートでもナンバーワンとなった。

今までに、ビルボード・ヒット・チャートの3部門すべてにおいてナンバーワンになったのはこの曲は初めてのことであった。しかも、この曲はエルヴィスにとって最初のミリオンセラー・ヒットとなった。現在までに1800万枚以上売りあげた。これにより、プレスリーは全米でスポットライトを浴びることになった。

「ハートブレイク・ホテル」「アイ・ガッタ・ウーマン」「アイ・ワズ・ザ・ワン」の他に
ドン・ロバートソンの作った「アイム・カウンティング・オン・ユー」と1953年にドリフターズが歌ってヒットした「マニー・ハニー」をレコーディングした。このレコードは1956年の9月にリリースされたが、「ハートブレイク・ホテル」ようなヒットにはならなかった。

エルヴィスが流星の如くスターダムに昇った大きな理由の一つにテレビがあった。 当時、まだアメリカは相対的に新しいものを発見する事に魅了されていた。

1950年代中頃、バラエティ・ショウが最も人気のあるテレビ番組であった。
マネジャーのコロネル・パーカーは、エルヴィスをテレビに出演させることが、全国に知らしめる一番良い方法だと分かっていた。

エルヴィスの歌はニュー・ミュージックであり、新鮮でエキサティングであったし、生演奏を通じてエルヴィスの素晴らしさが表現できると考えた。エルビスのバンドは、絶え間なく南部各地のツアーを続けた。

しかし、ほとんどがカントリー・ミュージック・ショーの開催地やカウンティー・フェアー等に限られていた。

全国に放映されるテレビに出演する事が、プレスリーを売り出すのに効果的であるのは明らかであった。それなしでは、エルヴィス・プレスリーは「キング・オブ・ロックン・ロール」の頂点に立つことが出来ないかも知れないと思った。

そこでパーカーは、エルヴィスがRCAで最初にレコーディングをした時と同じように、当時の人気テレビ番組「トミー&ジミー・ドーシー・ショー」に出演の交渉をした。
その結果、そのステージ・ショーに4週連続で日曜日に出演する事が決まった。1回の出演料が1250ドルでエルヴィスはサインした。 

後に、プレスリーの人気が上がり出演回数も6回に増えていった。

*写真は「トミー&ジミー・ドーシー・ショー」に出演中のエルヴィス・プレスリー。

ジョーダネアーズのメンバーのストカー、ニール・マシューズ、ホイト・ホーキンズそしてヒュー・ハレットの4人は、1956年7月2日にエルヴィスとレコーディングを開始した。

このグループは、1948年に結成され、グランド・オール・オプリーで歌うようになり、レッド・フォーリー、ハンク・スノー、キティー・ウエルズ、ジム・リーブス、テネシー・アーニー・フォード、マール・ハガード、トム・ジョーンズそしてマリー・オズモンドなど伝説的なカントリーやポピュラー・ミュージック・シンガーのバックを勤めた実績のあるグループである。

エルヴィスがRCAで最初に吹き込む歌は、1955年にレ・チャールズが歌ってヒットしたリズム&ブルース「アイ・ガッタ・ウーマン」が候補に上った。

この曲は、エルヴィスがサン・レコードで開発した音に忠実に再現できる曲だった。しかし、RCAはエルヴィスが歌ってヒットすると言う予感がしなかった。

RCAが探していたものがまもなくやってきた。「ハートブレイク・ホテル」とタイトルが付けられたオリジナル曲である。この「ハートブレイク・ホテル」は、ソングライティング・チームのトミー・ダーデンとマエ・マックストンによってエルヴィスのために書かれたものだった。

1955年のある日、二人は「あなたは、この男性を知っていますか?」と言うマイアミヘラルド新聞の見出しに目が留まった。その時に歌の着想の源が浮かんだのだった。
記事の内容は、自殺した正体不明の身なりのぱりっとした男性についてだった。

その男は、「私は、孤立した淋しい通りを歩く」と書かれてあったメモを握りしめていた。
ダーデンとマックストンは、これを元にブルース・ソングを書いた。そして、デモテープに記録した。

エルヴィスが、1955年11月にナッシュビルで開かれるディスクジョッキー大会に出席していたとき、既にエルヴィスはデモテープを聞いていた。エルヴィスは、それをレコーディングすると誓ったように、歌によって導かれたのだった。

レコーディングの時、チェット・アトキンズは、エルヴィスがサン・レコードで開発した特徴的な音を模倣しようとして、RCAの事務所が入っている建物の階段吹き抜けに大きなエコー効果が欲しかった。

その結果出てきた音はRCAとパーカーがほとんどリリースするのを許さなかったように普通の音ではなかった。

エコー音についての心配にもかかわらず、「ハートブレーク・ホテル」が、2週間後の1956年1月27日にリリースされた。裏面は「アイ・ワズ・ザ・ワン(ただ一人の男)」だった。

1956年が始まったのと同じように、エルヴィス・プレスリーは、スターの地位を得る間近まで来ていた。プレスリーの時代が始まる予感であった。

エルヴィスは、カントリー・アンド・ウエスタン歌手だけではなく、白人のリズム・アンド・ブルースの熱狂者でもなく、また、ディーン・マーティンのようなバラードを歌うタイプでもない。しかし、カントリー・ミュージック・ファンが今までに見たことがなかったロックン・ロールのティーン・アイドルとしてスターダムに昇っていくであろうことは間違いなかった。

21才のエルヴィス・プレスリーは、メジャー・レーベルでの最初のレコーディングのために、ナッシュビルのRCAスタジオに向けて出発した。
1月10日と11日に行われた初のRCAセッションは、RCAの役員でアーティスト&リパートリアーのスティーヴ・ショールズとナッシュビルの伝説的ギター名手、チェット・アトキンズによって制作された。

アトキンスは、テネシー州のルッテレルからナッシュビルに来ていた。スティーヴ・ショールズは「キャンド・ヒート」のアトキンスのレコードを聞いて、若いギタリストの妙技に感動していた。

アトキンスは、セッション・ミュージシャンとして他のアーティストのバック演奏をしたり、彼自身のギター演奏のレコーディングなどを通して後にプロデューサーとなり、ナッシュビルの音楽担当になった。1960年に、アトキンスはRCAのアーティスト&リパートリアー・マネージャになり、1968年に、彼は副社長になった。

アトキンスは、プレスリーについて「エルヴィスがやって来たとき、彼がやることはすべての点で違っていた。彼はリズム感があり、リズムから入っていく音楽を始めた最初のシンガーだった。彼は違った服を着て、我々がこれまでに見たことがない違った動きかたをしていた。本当に衝撃的だった。私は、彼のようなユニークな歌手は他にはいないだろうと思う」と語った。 

また、その最初のRCAセッションでエルヴィスをバックアップするのは、彼のツアー・バンド — スコッティ・ムーアとビル・ブラックそして新しく加入したドラムのD.J.フォンタナだった。

そして、ピアニストがフロイド・クレイマー、ヴォーカリストがゴスペル・ヴォーカル・カルテット(四重唱)、ジョーダニアーズのリーダー、ゴードン・ストカー。また、バックのヴォーカリストがスペーア・ファミリー・ヴォーカル・グループのベンとブロック・スペーアだった。そうそうたるメンバーがエルヴィスを支えたのだった。

写真:初期のレコーディングでプレスリーのプロデュースをしたチェット・アトキンス。カントリー・ミュージック界の伝説的ギターリストである。

同時に、パーカーはエルヴィスの音楽出版権を保持するために、ニュー・ヨークに拠点を置く「ヒル&レンジ・ミュージック」社によって管理されているサム・フィリップスの「ハイ・ロー・ミュージック」を15000ドルで買収するために協議した。

取引の一部として、実際のソングライターから著作権使用料にフィルターをかけるために、ヒル&ミュージック社は2つの子会社「グラディス・ミュージック」と「エルヴィス・プレスリー・ミュージック」を設立した。

この音楽出版に関する契約は、ミュージシャンのマネジャーとしての手腕を深めると言うよりはむしろ、あぶく銭を取りに行くことが主たる目的であった。これが、コロネル・パーカー流の完全なやり方であった。

この取り決めで、エルヴィス・プレスリーに歌を提供する作曲家及び作詞家は、印税の一部を「エルヴィス・プレスリー・ミュージック」と「グラディス・ミュージック」の2社が取るために、彼らの一部分の印税を断念する事に同意しなければならなかった。

この条件のため、その時代の最も有名な作詞作曲家の多くは、自分たちの著作権使用料にしがみつくためにエルヴィスから離れて傍観していた。
エルヴィスがこれまでに録音した最悪の歌の多くは、ヒル&レンジで働いた作家の何人かが書いたものだった。そして、大部分の歌を彼の映画で使った。

エルヴィス・プレスリーとコロネル・パーカーそしてサム・フィリップスの3人は、1955年11月20日、「RCAビクター」と「ヒル&レンジ」との契約を成立させた。
40000ドルの総額は、一人の歌手にレコーディングと出版権利に対してこれまで支払われた中では最も大きな金額であった。

RCAビクターは、エルヴィス・プレスリーを売り出す権限とその投資に関してのすべての費用も保証した。 プレスリーは、投資してもそれだけの価値があるとRCAビクターは見抜いたのである。

エルヴィスは、1977年8月に死ぬまで、他のどのアーティストよりもはるかに多い5億枚以上のレコードを売った。

単独でこの取引を通して、パーカーはエルヴィスを現代の音楽シーンの最前線に投げ込みました。それでも、パーカーは決して終わらなかった。次に考えたことは、全国テレビに出演させることだった。パーカーは、アメリカ中の家庭のリビングルームでエルヴィスを見られるようにとすでに交渉していた。

パーカーはエルヴィスに言った;「君は優秀でそしてセクシーなタレントとしてそのまま続けていけば、君も私も両方とも王様のように裕福になるだろう」


最初に契約金を提示したのはコロンビアだった。同社のディレクター、ミッチ・ミラーはエルヴィスとの契約金15000ドルを提示した。 契約するかしないかはパーカー次第だった。

たとえフィリップスが契約の条件として最低20000ドルを望んでいるとしても、サム・フィリップスは金が必要なのは分かっている。しかしながら、パーカーは鋭い交渉者であって、より多くの金がどこか他で調達出来るかも知れないと考えていた。

パーカーも、ミッチ・ミラーがロックンロール音楽に対してあまり乗り気でないことも分かった。そして、エルヴィスが必ずしも、コロンビアでいい待遇を受けて指示されるとは限らないだろうと思った。

それでも、パーカーは20000ドルを要求した。思った通りミラーはすぐに拒絶しました。そして、エルヴィスにはそんなに多くのお金の価値がなかったと述べた。
次に、アトランティックは、25000ドルの契約金を提示した。その金額は正当なものであった。

しかし、エルヴィスはこれから大スターになる歌手である。比較的小さな独立系レーベルでプレスリーに歌わせることが少し気にかかった。
パーカーは、アトランティックが25000ドルをエルヴィスに費やすとすれば、会社の運営資金が足りなくなるだろうと感じた。そして、きちんと彼のレコードを売り出すための充分な資金もないだろうと判断した。

一方、RCAビクターは、ショールズが遂に、プレスリーに賭けることを会社に納得させた。 ショールズは、アーティストとレパートリーを担当する役員として基本的に彼の全ての将来を賭けるのに十分な可能性をエルビスは持っていると信じた。
もし、プレスリーが失敗したならば、ショールズは確実に音楽ビジネスから追放されるだろう。

RCAはサン・レコードから契約を買い取って、プレスリーのサン・レコードでの権利すべてを得るために25000ドルを提示した(フィリップスは、サンがすでにプレスしたプレスリーのレコードの残りのコピーを売り払らうことも認めた)。

さらに、もう5000ドルはエルヴィス自身に手付け金として前払いすると言うものだった。エルヴィスは自分の母 (運転はしない) にピンクのキャデラックを買うためにその中から一部の金を使ったのだった。

写真;エルヴィスが母グラディスに買ったと言われる車「ピンク・キャデラック」

フィリップスとの同意で、パーカーは、大手レコード会社との協議をするためにニューヨークへと向かった。フィリップスがパーカーに与えた唯一の条件は、20000ドル未満では絶対に契約しないようにと言うことだった。

3社のレコード会社が、人気急上昇のメンフィスの若者に真剣に興味を示した。コロンビアとRCAビクターそしてアトランティック・レコードだった。

1950年代は、RCAビクターとコロンビアがレコード業界で2大トップ企業であった。
カントリー・ミュージックは、テネシ-州ナッシュビルが本拠地で、そこではRCAビクターがナッシュビルでのシェアーをほとんど支配しており独占状態だった。

コロンビアは、ナッシュビルでの足場を固めるため必死になってエルヴィスの獲得に動いた。コロンビアの役員は、プレスリーは将来カントリー・ミュージック界のスターになると信じていた。

一方、アトランティックは、トルコ国米国大使の息子であるアーメット・アーテガンと元ビルボ-ド誌のリポーターだったハーブ・アブラムソンの2人が始めたものでまだ若い会社だった。

主にリズム&ブルースのアーティストが中心のレコード会社。アトランティックは、スウィングタイム・レコードから25000ドルでレイチャールズの契約を買うことによって、3年早く成功を収めた。

コロンビアと同様に、アトランティックもエルヴィスを有利なナッシュビル/カントリー・ミュージック市場で確固たる地位を確立する方法とみなした。
3社のうち、RCAビクターは、多分プレスリーとの契約に対しては最も少ない関心度ではなかっただろうか。

ビクターでエルヴィスを一押していた役員は、A&R(アーティスト&レパートリー)マン(ディレクター)のスティーヴ・ショールズだった。ショールズは、ハンク・スノー、エディー・アーノルド(2人ともパーカーのクライアント)とピー・ウィー・キングのような大スターにRCA/ナッシュビルで署名をさせた実力ある人物である。

彼はグランド・オール・オプリーでエルヴィスのパフォーマンスを見て、特別な何かを持っていることを見抜いていた。

写真:プレスリーとギターマンのスコッティー・ムーア

パーカーが、プレスリーのマネジャーとして最初にしたことは、エルヴィスをルイジアナ・ハイライドとの契約から抜け出すことだった。

ルイジアナ・ハイライドが過去2年間エルヴィスに出演のチャンスを与えたことによって南部中至る所でエルヴィスのことが知れ渡った。その間に、エルヴィスが上昇機運に乗ることが出来るなら、ハイライドが提供することができなかった全国的に売り出すということが必要となるだろうことは分かっていた。

そしてまた、パーカーはエルヴィスがサン・レコードとの契約を切り、全国展開しているメイジャー・レーベルのレコード会社と契約をしなければならないと考えていた。

サム・フィリップスは、そのような兆しがあることを薄々感じていた。そして、パーカーのやることが見えてきた。フィリップスはエルヴィスがサン・レコードにいる日もそんなに長くはないと分かった。そして、フィリップスは完全に、エルヴィスを失うことを嫌ではなかった。プレスリーは、今にも巨大な歌うスターになる寸前だった。

パーカーは、プレスリーをルイジアナ・ハイライドの契約から解除した後に、プレスリーのために出来る限り全国のテレビに出演させると同時に、一流の巡業に参加する交渉をし始めた。

エルヴィスが本当に全米で大ヒットを飛ばすようになったら、 サン・レコードのような小規模のレコード会社なんかすぐに破壊することができるということをサムは分かっていた。フィリップスは、単に100万枚のレコードをプレスして配給するのに必要な資金を持っていなかったのだ。

一方、パーカーがメジャー・レーベルとの有利な取引を手配することができるならば、サン・レコードは、フィリップスが一押しする最新の若いロカビリー天才歌手カールパーキンスのために十分な資本を受けられるだろうと思った。フィリップスは、パーキンスがプレスリー以上ではないとしても、少なくとも同じくらいの可能性を感じていた。

写真:右からサム・フィリップス(サン・レコードのオーナー)
プレスリー、ボブ・ニール(エルヴィスの最初のマネジャー)